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将家
「将家〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
将家の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「小田原陣」より 著者:菊池寛
五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に大
将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻り粧ひ、芳野立田の花紅葉にや....
「細木香以」より 著者:森鴎外
じて、二三の諸侯の用達を専業とした。これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中
将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田|霞が関の松平少
将家の三家がその主なるものであっ....
「源氏物語」より 著者:紫式部
ごとく与えているものでないのにと玉鬘は思っていた。輦車が寄せられて、内大臣家、大
将家のために尚侍の退出に従って行こうとする人たちが、出立ちを待ち遠しがり、大将自....
「源氏物語」より 著者:紫式部
御辞退をあそばされる間がなかったのであった。目だたせないようにはしていたが、左大
将家をもってすることであったから、玉鬘夫人の六条院へ出て来る際の従者の列などはた....
「源氏物語」より 著者:紫式部
が二つお供をした。女房三十人、童女と下仕えが八人ずつ侍していたのであるが、また大
将家からも儀装車十二に自邸の女房を載せて迎えに出した。お送りの高級役人、殿上人、....
「源氏物語」より 著者:紫式部
たため、宮は九時ごろに宇治へお着きになった。内記は山荘の中のことをよく知った右大
将家の人から聞いていたので、宿直の侍の詰めているほうへは行かずに、葦垣で仕切って....
「源氏物語」より 著者:紫式部
かりでならぬ薫でもあったが、はかばかしく消息をする人もなかったために、葬儀にも大
将家の使いの立ち合わなかったのは山荘の人々の情けなく思うところであったが、荘園の....
「顎十郎捕物帳」より 著者:久生十蘭
慶《いえよし》公の御|世子《よつぎ》、幼名《ようみょう》政之助さま……いまの右大
将家定公は、本寿院さまのお腹で文政七年四月十四日に江戸城本丸にお生れになったが、....
「頼朝の最後」より 著者:田中貢太郎
建久九年十二月、右大
将家には、相模川の橋供養の結縁に臨んだが、その帰途馬から落ちたので、供養の人びと....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
た。 その補佐には。顕家の父、北畠|亜相(親房)、結城宗広。――供には、冷泉少
将家房、伊達ノ蔵人行朝、三河|前司親朝、そのほか数千の弓箭が、列の先も霞むばかり....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
られるのである。またその郷里たる安房国長狭郡東条郷を以て、「天照大神の御厨、右大
将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」などと、かなり強い歴史的の....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
ら好んで有力者の家人になり、令制の賤民の地位に甘んずるようになる。一方では将種、
将家などと呼ばれて、累代多くの家人を有し、立派に武士の統領たるの家を為しているも....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
ていたとすれば、他の権門勢家にもまた同様のことがあったと想像せざるをえぬ。左府大
将家の散所随身のことはすでに引いた。東寺の散所法師の所々の権門に属したことも右に....