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万延
「万延〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
万延の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
うを云うと、この年は二月二十八日に文久と改元のお触れが出たのですから、一月はまだ
万延二年のわけですが……。その頃、京橋の築地、かの本願寺のそばに浅井|因幡守《い....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい。これですよ」 半七老人は
万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下に....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
よ」 これが口切りで、わたしは今夜もひとつの新らしい話を聴き出すことが出来た。
万延元年六月の末頃から本所の竪川通りを中心として、その附近にたくさんの白い蝶が群....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
ど高名になったのは、あたかも一場の芝居のような事件が原因をなしているのであった。
万延元年の十月、きょうは池上の会式というので、八丁堀同心室積藤四郎がふたりの手先....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
に海岸通り、北仲通り、本町通り、弁天通りが開かれる。野毛の橋が架けられる。あくる
万延元年の四月には、太田屋新田の沼地をうずめて港崎町の遊廓が開かれる。外国の商人....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。 年も
万延元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
はならない。幕府の役人にそれほどの先見の明があったとは言いがたい。なるほど、安政
万延年代には岩瀬肥後のような人もあった。しかし、それはごくまれな人のことで、大概....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
来た。その翌年、私の二ツの時は安政の大地震、三年は安政三年の大暴風――八歳の時は
万延元年で、桜田の変、井伊掃部頭の御首を水戸の浪士が揚げた時である。――その時分....
「八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
はズンズン移って行った。 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、
万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。 この物語に現われた、....
「絶景万国博覧会」より 著者:小栗虫太郎
山三郎の火焔宝珠と云われた程の太夫であった。しかも、その源氏名の濃紫と云う名を、
万延頃の細見で繰ってみれば判る通りで、当時唯一の大籬に筆頭を張り了せただけ、なま....
「経帷子の秘密」より 著者:岡本綺堂
一 吉田君は語る。
万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後....
「『七面鳥』と『忘れ褌』」より 著者:佐藤垢石
じゃろう。ごゆっくりお休みなされ』 役僧は、風流の心を察したかのようであった。
万延元年三月三日は、黎明の頃から江戸にちらちらと雪が降った。 男坂の方から愛宕....
「にらみ鯛 」より 著者:佐藤垢石
悲しき副膳のお肴
万延元年の四月の末の方、世はもう、青葉に風が光る初夏の候であった。 京都所司代....
「鴎外博士の追憶」より 著者:内田魯庵
たという説がある。左に右く天禀の才能に加えて力学衆に超え、早くから頭角を出した。
万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は....
「福沢諭吉」より 著者:高山毅
て、なんぱしたアメリカの海軍士官ブルック大尉ら十|人がのりました。 咸臨丸は、
万延元(一八六〇)年一|月十九|日、使節たちをのせた船よりも一足さきに浦賀を船出....