三善[語句情報] »
三善
「三善〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
三善の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「稲生播磨守」より 著者:林不忘
ので。会津でござる。 座の一人 会津と申しますと、兼定《かねさだ》? それとも、
三善か若狭守か――。 所有主 兼定でございます。 播磨 初代か。 所有主 はっ。....
「日本イデオロギー論」より 著者:戸坂潤
一般に之が反動イデオロギーの「宿命」なのである*。
* この一節に就いては坂本
三善氏の簡潔なスケッチがある(「日本主義思想の露漲」――『唯物論研究』一九三四年....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
『黒人の心裏』一五三頁。一九一一年板ロスコーの『バガンダ人』二二四頁)。日本にも
三善為康《みよしのためやす》の『拾遺往生伝』中に、浄蔵大法師を謗《そし》った者そ....
「道成寺(一幕劇)」より 著者:郡虎彦
れましたが、私はどのような障碍にあいましょうと、一人で降りて行きとうございます。
三善の知識が得たいばかりにわが家をもぬけ出て来ましたものを、まだ人の世の夢やかな....
「宝塚生い立ちの記」より 著者:小林一三
となった。そこで関西における舞踊界の新人、楳茂都陸平氏を振付に、また作曲者として
三善和気、原田潤の両氏を歌劇団の教師に招いた。そして深刻な経営難に脅かされながら....
「間人考」より 著者:喜田貞吉
自ら公民の資格を放棄し、課役を避けて僧となったものが天下三分の二の多きに及んだと
三善清行は言っている。所謂下司法師・中間法師の徒となったので、その多数はともかく....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
或いは数国を領する様な大大名になってしまった。そこで大江広元とか、中原親能とか、
三善康信とかいうような、立派な京都の公家衆までが、自ら身をこの家人なる賤民の群に....
「沙門と屠児」より 著者:喜田貞吉
沙門と屠児 喜田貞吉
三善清行の「意見封事」に、延喜頃の人民が課役を避けんが為に出家して、天下の民三分....
「牛捨場馬捨場」より 著者:喜田貞吉
が、自ら身を沙門に扮して出家逃亡するに至った浮浪民の群である。延喜の時代において
三善清行は、公民が課役を避けて逃亡し、為に課丁の甚だしく減少した事を極言している....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
喰うというだけの事であった。そしてそれが為に彼らは餌取の名を与えられていたのだ。
三善清行の「意見封事」に、脱税出家の沙門の徒を評して、その「家に妻子を蓄へ口に腥....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
、特にこれを禁止したものであったと解せられる。 ここに濫僧とは、当時の文章博士
三善清行の「意見封事」に、当時の人民課役を避けんが為に、私に髪を剃り、猥りに法服....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
としたり、歌舞をもって物貰いの方便としていたのであった。そこへ平安朝になっては、
三善清行のいわゆる「家に妻子を蓄へ、口に腥※を啜ひ、形は沙門に依て心は屠児の如き....
「融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
大層たくさんにできました。延喜といえば今から千十余年の昔ですが、その頃の文章博士
三善清行の上奏の文によると、当時の天下の民の三分の二は、みなこの偽法師仲間であっ....
「濫僧考」より 著者:喜田貞吉
ことは、右の「塵袋」の文で明白だ。しからばその濫僧の起原やいかに。 延喜十四年
三善清行の上った「意見封事」十二個条のうちに、 、及び宿衛舎人の凶暴を禁ぜんと請....
「濫僧考補遺」より 著者:喜田貞吉
補っておく。 濫僧はもちろん沙門である。したがって法師と呼ばれてはいたが、実は
三善清行によって「形は沙門に似て心は屠児の如し」と言われたように、普通の沙門の仲....