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「三成〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

三成の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
猿飛佐助」より 著者:織田作之助
いる隙をねらって胴を小腋にかかえて逃げ出すのも一法だなどと、言っている内に、石田三成が関東相手のむほん噂を耳にしたので、胴探しは一時中止して、無敵は佐和山へ、佐....
碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
はほぼ次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八....
山崎合戦」より 著者:菊池寛
簡単に見通しのつくものではなかったに違いない。 後になって、たった四万石の石田三成に二万石で召し抱えられたほどの豪傑、島左近にだって分らなかったのである。 ....
真田幸村」より 著者:菊池寛
されたに違いない。 関ヶ原の時、真田父子三人家康に従って、会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。 昌幸は、勿論....
小田原陣」より 著者:菊池寛
十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って潰えて居る。石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居る忍城の成田氏長の様な勇将もあったが、....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
後この地方の郷士として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道を登って関....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
食した廉々《かどかど》を詰問した。勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと....
八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
編み出し竹林派と申す。嫡男新三郎水没し、次男弥蔵|出藍の誉れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の傍に住す。清洲少将忠吉公、その名を....
日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
死者が多かった。この伏見の地震は、河竹黙阿弥の地震加藤の史劇で有名な地震で、石田三成等の纔者のために斥けられて蟄居していた加藤清正は、地震と見るや足軽を伴れて伏....
「平家物語」ぬきほ(言文一致訳)」より 著者:作者不詳
ってしまいました。殊に手を下して御首を討ちまいらせたのは近江の国の住人、木村の源三成綱と申しました。私もすぐ御供申し上げにどんなにもなる身でございますが、かねが....
街はふるさと」より 著者:坂口安吾
損をあきらめるのさ。ところが、ここに、すべて物事には当事者ではない三人目がいて、三成敗や三方損というマキゾエをくらって、ついでに損の片棒だけをかつがされている運....
血ぬられた懐刀」より 著者:国枝史郎
って、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。 秀吉の謀将の石田三成や、増田|長盛というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾....
南国太平記」より 著者:直木三十五
と、一人が、俯向いている一座の人々の中から、顔を上げていった。 「わしには、石田三成が、刑場へ引かれる道で、柿は、痰《たん》の毒だ、といった心懸が、よくわかる。....
幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
いう人があって、明治十四年の博覧会に出品する作品に着手していた。 これは銀座の三成社(鋳物会社)が金主となって大島氏に依嘱したものであるが、その大島氏と息子に....
私の履歴書」より 著者:井上貞治郎
を喜び、別れていった三人の出資者にも心から感謝を捧げた。そして事業名を三盛舎から三成社に改めた。ちょうどこのころ、私が苦心して組立てた機械とその製法が実用新案特....