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三斎
「三斎〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
三斎の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「忠義」より 著者:芥川竜之介
して宗教の嗜《たしな》みに、疎《おろそか》な所などのあるべき筈はない。それが、「
三斎《さんさい》の末なればこそ細川は、二歳《にさい》に斬《き》られ、五歳《ごさい....
「阿部一族」より 著者:森鴎外
に有吉《ありよし》頼母《たのも》英長《ひでなが》の妻になる人である。弟には忠利が
三斎《さんさい》の三男に生まれたので、四男|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》立孝....
「仇討禁止令」より 著者:菊池寛
した。が、皆の心にすぐ天野新一郎の名が浮んだ。彼は、藩の指南番、小野派一刀流熊野
三斎の高弟であるからだ。 「腕前は未熟であるが、拙者はぜひお加え下されい」吉川隼....
「巌流島」より 著者:直木三十五
う》の子、又三郎が随一の者とされていた。 豊前の国小倉へ来るとともに、太守細川
三斎|忠興《ただおき》が彼を抱えて師範役とした、留まること半歳、早くも中国、九州....
「雪之丞変化」より 著者:三上於菟吉
族たちの、家号や名前が、ずらりと並んでいるのだったが、彼の瞳は、ただじっと、土部
三斎という、駿河守隠居名に、注がれて離れなかった。
彼の胸は、激烈な憎悪と、憤....
「渋江抽斎」より 著者:森鴎外
拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿した細川
三斎が
三斎老として挙げてあって、またその第を諸邸宅のオリアンタションのために引合....
「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」より 著者:宮本百合子
苦々しいものに感じられたのであったろう。興津彌五右衛門が正徳四年に主人である細川
三斎公の十三回忌に、船岡山の麓で切腹した。その殉死の理由は、それから三十年も昔、....
「艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
や織田有楽斎を師匠として励んでいたから、利休七哲として有楽斎と肩を並べていた細川
三斎から見れば、ちょっと後輩だった。 虚堂禅師の懸物が、家康の手より頼宣に伝え....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
《とりがねななこじ》へ金紋虎《きんもんとら》の彫り、それから塗りがこの通りの渋い
三斎好み、中身は備前|盛光《もりみつ》というんだから大したものでございますよ。今....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
には、多少|翰墨《かんぼく》の修養があったものに相違ない。 「これこそ、わが主人
三斎公にお目にかけなければならぬ」 それを、傍《かた》えから、さいぜんよりじっ....
「興津弥五右衛門の遺書」より 著者:森鴎外
丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。当時田辺城には松向寺殿|
三斎忠興公御立籠り遊ばされおり候ところ、神君|上杉景勝を討たせ給うにより、
三斎公....
「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」より 著者:森鴎外
く候。床の間に並べ有之候御|位牌三基は、某が奉公|仕りし細川越中守|忠興入道宗立
三斎殿御事松向寺殿を始とし、同越中守|忠利殿御事妙解院殿、同肥後守|光尚殿御三方....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
長岡|佐渡は、度々この寺へ姿を見せる大檀那の一人だった。彼は、名将の聞えの高い
三斎公――豊前小倉の城主細川|忠興の家職であるから、寺へ来る日は、もちろん縁者の....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
に重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川
三斎からも、彼は教えられていた。 第一が、人物である。第二が、和である。いくら....
「随筆 宮本武蔵」より 著者:吉川英治
。 前の新免家の六人衆などでも、馬の草鞋を作って生活しているうちに、小倉の細川
三斎公の耳に入って、 「不愍である。取立ててやれ」 と、召出された。 ここが....