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「二戸〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

二戸の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
梓川の上流」より 著者:小島烏水
か、吠えそうにもしない、一体この神河内には、一里も先にある温泉宿を除いて、小舎が二戸ある、一つは徳本峠を下りると直ぐの小舎で、二間四方の北向きに出来ている、徳本....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。 「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂れ....
八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き仆された。が、団体は崩れなかった。遮二無二戸口の方へ走って行った。三頭の熊が飛び掛かった。二頭の豹と力を合わせ、信者達を....
縁結び」より 著者:泉鏡花
」 と※った目がうつくしく、その俤が映りそう。 「お向うというのは、前に土蔵が二戸前。格子戸に並んでいた大家でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違う上に、....
探偵夜話」より 著者:岡本綺堂
内福の家であったとみえて、湯殿はもちろん、米つき場までも出来ていて、大きい土蔵が二戸前もある。こう書くとなかなか立派らしいが、江戸時代にもかなり住み荒らしてあっ....
」より 著者:岡本綺堂
内福の家であったとみえて、湯殿はもちろん、米つき場までも出来ていて、大きい土蔵が二戸前もある。こう書くとなかなか立派らしいが、江戸時代にもかなり住み荒らしてあっ....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
の役のやむ能わざるに至った次第であった。当時いわゆる六郡以北の地方、すなわち今の二戸・九戸の諸郡から、北、津軽の地方へかけては、いわゆる奥地として安倍氏にも属せ....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
時にはさきに田村麿が行かなかった奥の方までも参りまして、確かに今の岩手県の東北部二戸郡福岡町附近の、爾薩体、都母あたりまでは従えました。この都母を、普通には今の....
フレップ・トリップ」より 著者:北原白秋
締めがして、そしてあのエンヤラヤアノヤアヤである。 大きな貸座敷風の構えも一戸二戸はあった。大概はまた待合風の怪しい景情であった。 「よう。目っけましたよ。あ....
エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
制定であった。この頃の大坂城代支配下の地域を書き表わしたと思われる地図に、たとい二戸・三戸の場所までも漏らさず、詳しく皮多村・穢多村を標記しているのも、当路者が....
特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
村 二十戸 百三十二人 旧柳内村 合計二千二百八十二戸、一万二千四百五十二人 とあって、正に六倍九分に増加しているのである。各村....
特殊部落と細民部落・密集部落」より 著者:喜田貞吉
作り、また移転も比較的自由であって、正徳五年の京都付近の穢多部落には、戸数僅かに二戸というのが二箇所、そのほか七戸・八戸・十四戸・十七戸・廿戸などいうのが普通で....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
彼らのみは甚だしく増加した。これはその部落の沿革を調査すれば明らかなことで、もと二戸ないし三戸であったと云うものが、後世には大抵数十戸に増加しているのである。中....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
氏報告)。近江源氏の牢人と称し、もと二十戸ばかりの部落であったが、文政天保頃より二戸となり、それも一戸は坂田郡へ、一戸は美濃へ移って全部落退転した。やはり陰陽師....
芝、麻布」より 著者:小山内薫
の風呂場のような広々とした明るい湯殿、板の間が十畳以上もあろうという台所。土蔵が二戸前あった。裏には、テニスコートぐらい出来そうな空き地がある。座敷は二十何畳と....