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今村
「今村〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
今村の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「地球図」より 著者:太宰治
と諭《さと》した。人々は、承知した、と答えて審問の席に臨んだ。そのときの大通事は
今村源右衛門。稽古通事は品川兵次郎、嘉福喜蔵。 その日のひるすぎ、白石はシロオ....
「右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
ったこの不思議きわまる因縁に権現さまともいわれた家康がすっかりと縮み上がって、自
今村正作の打ち物類は見つかりしだい取り捨てるべし、というご禁令をお納戸方《なんど....
「骨を削りつつ歩む」より 著者:佐左木俊郎
歳に二度病気をした。第一回目は関節炎で、神田の馬島病院に二週間入院して、弁護士の
今村力三郎先生から――私はその頃、
今村先生のお宅に書生をしていたのだが――入院料....
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
班員」は近来誰でも知っていてくれるので、早分かりがするようだ。 ◯見舞状を出す。
今村、朝、摂津、久生、荒木。 ◯味噌の配給がとまった。罹災者へまわしたためとある....
「河明り」より 著者:岡本かの子
室へ入って行った。床の間の掛軸は変っていて、明治末期に早世した美術院の天才画家、
今村紫紅の南洋の景色の横ものが掛けられてあった。 老主人の濃茶の手前があって、....
「桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
た。 岡崎城守備 庵原元景等千余人 緒川、刈屋監視 堀越義久千余人 十八日には
今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。 丸根砦攻撃 松平元康 ....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
われた。そのうちの一人は伊那座光寺にある熱心な国学の鼓吹者仲間で、北原稲雄が弟の
今村豊三郎である。一人は将軍最初の上洛に先立って足利尊氏が木像の首を三条河原に晒....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、
今村|豊三郎、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」 こ....
「簡略自伝」より 著者:佐左木俊郎
み古した軍記、文学、講談などの雑誌に埋れて夢を見続けていた。 十八の秋に上京。
今村力三郎法律事務所に寄食。私に文学を志していたのであったが、一日も早く父母の生....
「現代日本の思想対立」より 著者:戸坂潤
長岡博士や故寺田寅彦博士の地球物理学方面の独創的な卓見は興味あるものだし、東大の
今村明恒、東北の中村左衛門太郎、九大の伊藤徳之助の諸博士や、地震研究所の高橋竜太....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
至ったが、当時は全く知る人のない秘められた宝庫だ。のみならず、船長畑中利平、通辞
今村善光らの手記によれば、この秘境は今日真珠の産地たるスールー海のどの地点でもな....
「明治開化 安吾捕物」より 著者:坂口安吾
から、妻ヤスノ(三四)が多津子(十五)秀夫(十二)大三(七ツ)の三子をつれ、家令
今村左伝(六二)同人妻カメ女(五五)と、ハツエ(二二)佐和子(十七)という二名の....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
貴山、金剛寺その他楠公に関係ある所へ行って甲冑を調べたのです。また加納夏雄先生と
今村|長賀先生とは太刀のことを調べました。 川崎千虎先生は河内へ行っていろいろ....
「南半球五万哩」より 著者:井上円了
事とともに午餐を喫し、ハワイ中学校に移りて講話をなす。聴衆百余名、本願寺出張所長
今村恵猛氏の主催なり。当夕は赤井氏宅にて晩餐を饗せらる。食後、さらに中央学院に至....
「本所両国」より 著者:芥川竜之介
子の出入りしたりしたのもこういう親戚のあったためであろう。僕はまたその家の近所に
今村次郎という標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを....