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「伊予〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

伊予の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
或敵打の話」より 著者:芥川竜之介
う》松山《まつやま》へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船《いよぶね》の便《びん》を求めて、寛文《かんぶん》七年の夏の最中《もなか》....
忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
なれと戦ったから、越前勢の向うところ、敵勢草木のごとく靡《なび》き伏して、本多|伊予守忠昌《いよのかみただまさ》が、城中にて撃剣の名を得たる念流左太夫《ねんりゅ....
仇討禁止令」より 著者:菊池寛
えている時だった。四国で、勤王の魁首である土佐藩は、早くも朝敵追討の軍を起して、伊予に入り、同じく勤王の宇和島の藩兵を加え、松山の久松松平家を帰順させ、予讃の国....
乱世」より 著者:菊池寛
布片を付けていた。彼らは、美濃に入ってから、所在に農兵を募った。美濃の今尾、竹越伊予守の城下に達したときは、同勢七百人に近かった。小藩の今尾では、不意の官軍にお....
海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
何? ◯一昨日、永田の新世帯のある八日市場へ行き泊った。十八日帰った。 ◯祖母、伊予より十八日突然帰る。 一月二十六日 ◯眼が悪くなってから、書くことがかなり....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人....
厳島合戦」より 著者:菊池寛
の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、来島、能島等の水軍の援助を頼んでおいた。 この連中は所謂海賊衆で、....
真田幸村」より 著者:菊池寛
めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。 忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村....
照葉狂言」より 著者:泉鏡花
のありし事は、一昨年なりけむ、はたその前のなお前の年なりけむ、われ小親とともに、伊予の国なる松山にて興行せし時聞及びつ。かかるべしとは思わでありし、今年またこの....
私の活動写真傍観史」より 著者:伊丹万作
三流のうちの片方はまつたくはいつたことがないので私は知らない。 知つているのは伊予鉄道の松山駅のすぐ傍にあつた末広座という小屋である。 末広座というのは比較....
註文帳」より 著者:泉鏡花
だ。」 この日|脇屋欽之助が独逸行を送る宴会があった。 「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから....
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養」より 著者:喜田貞吉
至って依然鹿角を附しているものであると解せられる。そしてそれは次項述ぶるところの伊予宇和島地方の鹿の子踊りによって、さらに裏書きさるべきものであらねばならぬ。 ....
宝永噴火」より 著者:岡本かの子
用を送っていたのは彼の母であったから母亡き後はとかく学費にこと欠いて来た。そこへ伊予の松山の城下は富裕の評判高く行乞に便利であるところからしばらくそれを便って落....
旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
なかった。彼らは一見普通民と区別すべき服装をさせられた。甚だしきに至っては、――伊予大洲藩の如く、――エタは必ず毛皮の徽章を付すべしとか、――土佐高知藩の如く、....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
意識がますます盛んになるとともに、それが年を逐うていよいよ厳重になり、文化五年の伊予の大洲藩の触書の如くんば、七歳以上のエタは男女にかかわらず、必ず胸に五寸四方....