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伏見
「伏見〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
伏見の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「大導寺信輔の半生」より 著者:芥川竜之介
丁《ほうちょう》にさえ動悸《どうき》の高まる少年だった。その点は――殊にその点は
伏見鳥羽の役に銃火をくぐった、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違いなかった....
「報恩記」より 著者:芥川竜之介
熱心に説き立てました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしは必ず働きます。京、
伏見《ふしみ》、堺《さかい》、大阪、――わたしの知らない土地はありません。わたし....
「籠釣瓶」より 著者:岡本綺堂
はもう固く閉められて、はいることは出来なかった。彼は屋根伝いに隣りからとなりへと
伏見町の方へ四、五軒逃げた。 この騒ぎを聞いて栄之丞も茶屋から出ると、狂人のよ....
「玉藻の前」より 著者:岡本綺堂
へ引き取られて、ことし十五になった。叔父の大六は店あきないをしているのでない。京
伏見から大津のあたりを毎日めぐり歩いて、呼び込まれた家《うち》の烏帽子を折ってい....
「海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
書館など多数。 とくに二十三、二十五日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東
伏見宮、
伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿....
「三浦老人昔話」より 著者:岡本綺堂
りません。お近さんのお父さんは十五代将軍の上洛のお供をして、明治元年の正月、彼の
伏見鳥羽の戦いで討死したと云うことです。 旗本の師匠 一 あると....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大坂の唐物商人
伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣....
「あのころ」より 著者:上村松園
で、隣の家へ落ちた大砲の弾から火事を起こし、その質蔵も類焼し、一家は生命からがら
伏見の親類へ避難したのでした。 そのときは母の仲子は十六、七でしたが、そのとき....
「瘠我慢の説」より 著者:石河幹明
、止むを得ずして攘夷論を装いたるものならん。その事情以て知るべし。 されば鳥羽
伏見の戦争、次で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩と攘夷藩との衝突にして、たとい....
「小坂部伝説」より 著者:岡本綺堂
がはっきりしていないのである。 まず伝説の方から云うと、人皇第九十二代のみかど
伏見天皇のおんときに、小刑部という美しい女房が何かの科によって京都から播磨国に流....
「江戸の化物」より 著者:岡本綺堂
られていました。そのほかに管狐を使う者もありました。 管狐というのは、わざわざ
伏見の稲荷へ行って管の中へ狐を入れて来るので、管の中へ入れられた狐は管から出して....
「迷信解」より 著者:井上円了
十日鼠くらいのものである。愚俗の信ずるところによれば、この狐をつかうものは京都の
伏見稲荷より受けきたりて、その家に飼い養うものとのこと。かくして養いおけば、よく....
「温泉雑記」より 著者:岡本綺堂
を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大阪の唐物商人
伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑の病みておはせし時、隣....
「淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
椿岳の浅草人形というは向島に隠棲してから後、第二博覧会の時、工芸館へ出品した
伏見焼のような姉様や七福神の泥人形であって、一個二十五銭の札を附けた数十個が一つ....
「古事記」より 著者:太安万侶
斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の
伏見の岡にあります。 ここにオホハツセの王は、その時少年でおいでになりましたが....