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備後
「備後〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
備後の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「疑惑」より 著者:芥川竜之介
それへ話がはずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町《なかまち》とかの
備後屋《びんごや》と云う酒屋の女房は、一旦|梁《はり》の下敷になって、身動きも碌....
「忠直卿行状記」より 著者:菊池寛
!」といいながら、忠直卿は手馴れた三間柄の長槍の穂鞘を払った。 槍鍛冶の名手、
備後貞包《びんごさだかね》の鍛えた七寸に近い鋒先から迸《ほとばし》る殺気が、一座....
「空襲葬送曲」より 著者:海野十三
大任務をやりとげるのに充分な人達とは、お世辞にも、云えなかったが、壮年男子は、予
備後備といわず補充兵役にあるものまでが召集され、北満、極東方面に労農ロシア軍と戦....
「雛妓」より 著者:岡本かの子
て、一先ず関心を打切って、離れた目で眺める雛妓は、眼もあやに美しいものであった。
備後表の青畳の上である。水色ちりめんのごりごりした地へもって来て、中身の肉体を圧....
「厳島合戦」より 著者:菊池寛
賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の
備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に....
「桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
松平元康 二千五百人 鷲津砦攻撃 朝比奈|泰能 二千人 援軍 三浦
備後守 三千人 清須方面前進 葛山信貞 五千人 本軍 今川義元 五千....
「琵琶伝」より 著者:泉鏡花
を繰返すことを禁じ得ざりき。 さてその頃は、征清の出師ありし頃、折はあたかも予
備後備に対する召集令の発表されし折なりし。 謙三郎もまた我国徴兵の令に因りて、....
「露肆」より 著者:泉鏡花
とて袖口へ引込めた、その手に一条の竹の鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、
備後は尾ノ道、肥後は熊本の刻煙草を指示す…… 「内務省は煙草専売局、印紙|御貼用....
「怪異黒姫おろし」より 著者:江見水蔭
それが秀頼公初め真田幸村等の薩摩落という風説を信じて、水の手から淀川口にと落ち、
備後安芸の辺りに身を忍ばせていたが、秀頼その他の確実に陣亡されたのを知るに及んで....
「迷信解」より 著者:井上円了
ある。あるいはこれは蛇持ちともいう。石見にては土瓶とも申すということじゃ。備前、
備後にては、猫神、猿神と名づくるものがあるそうだ。これらはみな類似のものに違いな....
「長吏名称考」より 著者:喜田貞吉
、右の賤職に従事するものが少からずあったには相違ない。川辺政一君の報告によれば、
備後の或る地方で皮田をエタの下に見ているのも、これを示したものであろう。されば東....
「宝永噴火」より 著者:岡本かの子
把握に探り入った。 そういう状態で彼は友に招かれたり、また伴れに誘われたりして
備後から播州の寺々を漁り歩いた。彼は体力が強いので、疲れた伴れの三人分の荷物を一....
「古事記」より 著者:太安万侶
になつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、
備後《びんご》の高島の宮に八年おいでになりました。 速吸《はやすい》の門《と》 ....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
水上」なる京都へ来て、エタの仕来りを問い合せているのである。 正徳二年七月に、
備後地方のエタと茶筅との間に於いて、支配権限の争いが起った。そこで福山のエタ頭三....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
ておかれた。多くの場合において普通民は彼らをエタの類といっていた。正徳二年には、
備後の茶筅とエタとの間に上下の争いがあって、エタの勝利に帰した例さえみえている(....