元治[語句情報] »
元治
「元治〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
元治の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
うなもので、関東諸国の百姓の次三男をあつめて、これに兵式の教練をさせたのですが、
元治元年の正月から募集をはじめて、その年の七月までには一万人ほどになりました。最....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
た。それがまた勘違いの種にもなって、あとでおやおやというようなこともありました」
元治元年九月の末であった。秋晴れのうららかな日の朝、四ツ(午前十時)をすこし過ぎ....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
り直してお聴きなさるほどの大事件でもないので……。あれは何年でしたか、文久三年か
元治元年、なんでも十二月二十七日の寒い朝、神田橋の御門外、今の鎌倉|河岸《がし》....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
一 芝、田町《たまち》の鋳掛屋《いかけや》庄五郎が川崎の厄除《やくよけ》大師へ参詣すると云って家を出たのは、
元治元年三月二十一日の暁方《あけがた》であった。もちろん日帰りの予定であったから....
「乱世」より 著者:菊池寛
桑名は、東海道の要衝である。東征の軍にとっては、第一の目標であった。その上、
元治元年の四月に、藩主越中守が京都所司代に任ぜられて以来、薩長二藩とは、互いに恨....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
無尽をしたり、遊芸のお浚いをしたり、まあそんなことで相当に繁昌している家でした」
元治元年三月の末であった。その田原屋の二階で藤間光奴という踊りの師匠の大浚いが催....
「半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
はおふみの一件というのをしずかに話し出した。 「わたしが丁度|二十歳の時だから、
元治元年――京都では蛤御門のいくさがあった年のことだと思え」と、おじさんは先ず冒....
「青蛙堂鬼談」より 著者:岡本綺堂
というと大変に遠い昔話のようですが、四十年ほど前のことだといいますから、日本では
元治か慶応の初年、支那では同治三年か四年頃にあたるでしょう。丁度かの長髪賊の洪秀....
「八ヶ嶽の魔神」より 著者:国枝史郎
って行った。 天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、
元治、慶応、そうして明治となり大正となった。 この物語に現われた、あらゆる人達....
「江戸か東京か」より 著者:淡島寒月
秩序も何もありませんよ。その上子供の時の事ですから、年代などは忘れてしまってる。
元治慶応明治の初年から十五、六年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国....
「黒百合」より 著者:泉鏡花
一体、ここは旧山の裾の温泉宿の一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。
元治年間立山に山|崩があって洪水の時からはたと湧かなくなった。温泉の口は、お雪が....
「あのころ」より 著者:上村松園
きは母の仲子は十六、七でしたが、そのときの恐ろしさをときどき話していられました。
元治元年の年のことであります。 間もなく四条御幸町西入奈良物町に家をたてて、そ....
「淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
伊藤八兵衛の成功は幕末に頂巓に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。
元治年中、水戸の天狗党がいよいよ旗上げしようとした時、八兵衛を後楽園に呼んで小判....
「二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
未完成の断片であるが、その幼時を知るにはこれに如くものはなかろう。曰く、 余は
元治元年二月二十八日を以て江戸|市ヶ谷合羽坂尾州分邸に生れたり。父にておはせし人....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
るをえぬ。徳川幕府の人口調査は、享保六年以後毎六年目に実施せられている。これより
元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日これを知る事が出来....