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光明寺
「光明寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
光明寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「或る女」より 著者:有島武郎
だれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで行きましょうね。そうして
光明寺《こうみょうじ》の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹《なか》がい....
「鍵屋の辻」より 著者:直木三十五
に死んだ。鳥取寺町興禅寺に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。矢張寺町の
光明寺にある。三人の子孫共現存しているそうである。郡山には荒木の屋敷趾が保存され....
「乱世」より 著者:菊池寛
うに、十三人の敗兵は、鳥取藩士の警護に付されて、四日市の北一里にある海村、羽津の
光明寺に幽閉されてしまった。そこからは、海蔵川原の刑場がつい目の先に見えていた。....
「明治美人伝」より 著者:長谷川時雨
った二人の俊髦《しゅんもう》として許された男――末松謙澄《すえまつけんちょう》と
光明寺三郎《こうみょうじさぶろう》――いずれをとろうと思い迷ったほど、思上った気....
「静岡地震被害見学記」より 著者:寺田寅彦
付けたのだと云って教えてくれた。 関東地震のあとで鎌倉の被害を見て歩いたとき、
光明寺の境内にある或る碑石が後向きに立っているのを変だと思って故田丸先生と「研究....
「あなたも私も」より 著者:久生十蘭
ったもんだから……むこうの山側の久慈さんの家へ、空巣《あきす》がはいりましてね。
光明寺のほうへは出なかったから、このへんにモグリこんでいるんだろうと思うんです。....
「山越しの阿弥陀像の画因」より 著者:折口信夫
恰好に、宗教画につきものの俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言っても、金戒
光明寺のは、伝来正しいらしいだけに、他の山越し像を圧する品格がある。其でも尚、小....
「茶屋知らず物語」より 著者:岡本かの子
つかつかと入りました。そして 「私は摂津国法福寺の円通と申す禅僧、これなるは紀州
光明寺の法眼と申す連れの僧、御主人も在らばお目にかかり度い」 と堅苦しく申入れ....
「鬼退治」より 著者:下村千秋
がりながらも、どうすることも出来なかった。 勘太郎の村から十丁ばかり離れた所に
光明寺という寺があった。山を少し登りかけた深い杉森の中にあって、真夏の日中でもそ....
「法然行伝」より 著者:中里介山
を紫雲の松と名附けられ、その荼毘の跡には堂を建てて御墓堂と名づけて念仏した。今の
光明寺である。 遺骸を拾い、瓶《かめ》に納め、幸阿弥陀仏に預けて置いて、その後....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
たものか。 「いつか暮れたな、春の日も」 「オ。……晩鐘が鳴っておりまする」 「
光明寺か、海印寺の鐘か」 「どこぞ里の旅籠で一夜をお待ちなされますかな、それとも....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
らでも、まだ天皇が笠置にありとの情報は、はッきりつかんでいなかったらしい。――「
光明寺残篇」とよぶ記録の九月五日付ケ鎌倉執達状には、 先帝、叡山ニ還幸、防ギ申ス....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ましたが、今日の船坂越えを控えてのせいか、夕道を延ばして、昨日は宵おそく、有年の
光明寺と申す山寺にご宿泊です」 「なに、有年の山寺とな?」 「は」 「では、船坂....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
小姓わずか七、八名を身につれただけで、突然、 蟄居する の旨を内外に触れ、浄
光明寺のうち深くに籠ってしまったのだった。 いきさつは直義とおもなる者しか知る....
「戦争史大観」より 著者:石原莞爾
し得ない」等という語を非常に面白く聴いたものである。 鎌倉に水泳演習の折、宿は
光明寺で我々は本堂に起居していた。十六羅漢の後に五、六歳の少女が独りで寝泊りして....