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「八戸〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

八戸の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
神社合祀に関する意見」より 著者:南方熊楠
同じく社殿なく古来老樹のみ立てり。しかるに、社殿あらば合祀を免ると聞き、わずか十八戸の民が五百余円出し社殿を建つ。この村三大字各一社あり。いずれも十分に維持し来....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
話しました。上州一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった....
石狩川」より 著者:本庄陸男
してもなかなか割だかなものであった。この扶助規則を適用された移民が、前の年に百十八戸の三百九十九人、そしてこの年二月から五月までに、二百四十五戸の七百九十余人。....
今日の日本の文化問題」より 著者:宮本百合子
C ラジオ 一九四五年三月日本全国のラジオ聴取者は七、四七三、六八八戸あった。四七年七月には五、八六一、六三四戸(内無料九五、〇九六)に減少してい....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
どこから来た」 「恐山《おそれざん》から」 「恐山? 恐山に住んでいたのか」 「八戸《はちのへ》の生れだが、恐山に修行していた」 「何の修行を?」 「何というこ....
私の小売商道」より 著者:相馬愛蔵
だんご」もこれだけの誠実があれば名物の地位を失うことはなかったのである。 奥州八戸に「胡麻せんべい」というのがある、昔は東京までその名が聞こえて賞味されたもの....
南国太平記」より 著者:直木三十五
島津和泉久風の二男であった。 「それもよいが、この春には、福岡(黒田美濃守)も、八戸(南部遠江守)も、中津(奥平大膳太夫)も、宇和島(伊達宗城)と一緒に江戸へ出....
奥の海」より 著者:久生十蘭
入り、胆沢街道を上って行ったかと思うほかなくなった。 海道について北に行くと、八戸二万石、南部左衛門尉の在所がある。もしやそこにでもと、海道の村々を念入りにた....
飢餓地帯を歩く」より 著者:下村千秋
正月にはお餅もつかないことにしました」 岩手県下は、この岩手郡を始め、二戸郡、八戸郡の大部分、下閉伊郡、上閉伊郡、和賀郡の一部分が、飢餓地帯と化した。その総面....
本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
、研究上有益なる援助を賜わった方々が少からぬのであります。中にも盛岡の橘正一君、八戸の小井川潤次郎君、黒石の佐藤耕次郎君などの通信は、最も有益に拝見しました。こ....
オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
かけ離れたものはしばらく別として、オシラサマ一類の名称のみを観察してみても、陸奥八戸地方ではオヒラサマといい、黒石地方ではオヒナサマと呼ぶと佐々木君は言っておら....
特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
旧小島村 八十三戸 四百五十六人 旧龍ヶ口村 五十八戸 四百五十二人 旧{ 三十三戸 二百十六....
特殊部落と細民部落・密集部落」より 著者:喜田貞吉
正徳五年の京都付近の穢多部落には、戸数僅かに二戸というのが二箇所、そのほか七戸・八戸・十四戸・十七戸・廿戸などいうのが普通であった。地方でも多分その様な事であっ....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
)の「エタ頭」として、寛政十二年の同人の書上によるに、当時エタ・非人七千五百二十八戸を支配していた。また上方では、京都で下村勝助が百九石余の御朱印を戴いて、「エ....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
ったと云うものが、後世には大抵数十戸に増加しているのである。中にも正徳の頃百八十八戸であった京都の六条村の如き、明治四十年には千百六十九戸となり、今では約二千戸....