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加古川
「加古川〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
加古川の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「少女地獄」より 著者:夢野久作
刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の
加古川さんて言う人が馳け付けて来て、背後《うしろ》から抱き起した時に、ウッスリ眼....
「播州平野」より 著者:宮本百合子
せて上げてもよろしいから。――そのトラックが、果して明石まで行けるやどうやしら。
加古川辺が大浸水だそうです」 いよいよとなれば、途中で泊りながら明石まで歩くし....
「鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
。 私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、
加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用は....
「万葉秀歌」より 著者:斎藤茂吉
人麿作、これも八首中の一つである。稲日野は印南野とも云い、播磨の印南郡の東部即ち
加古川流域の平野と加古・明石三郡にわたる地域をさして云っていたようである。約めて....
「最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
日本武尊らの母|印南大郎女(播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて逃げて、
加古川の川口の印南都麻という島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、その島に向....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
っていた。 そして、十二日の頃。 「さきを行った後醍醐の御列は、今宵すぐ近くの
加古川ノ宿にお泊りらしい」 と、ふとお耳にされた。 その宵。皇子宗良の一行は....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
になると、親王は、一羽の雀を掌にのせてお見せした。――そしてこれは、去年、播州の
加古川から船で讃岐へ送り渡される朝、兼好という法師に仕えている童から餞別にもらっ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
ここばかりでなく、但馬境から赤穂にまでわたる諸所の陣もみな引いて、一せいに、播州
加古川へぞくぞく落ちて行くと聞え渡った。要するに、
加古川は、総大将義貞のいる宮方....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
昆陽野(伊丹)から馬をとばして来て、 「新田どのの軍勢は、白旗城のかこみを捨て、
加古川の陣も抛って、ぞくぞく兵庫へひきあげ中のよし。何せい、諸所の崩れ、尋常では....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
。 かつてお若い頃、お父ぎみの後醍醐の難に累せられて、讃岐へ流されてゆく途上、
加古川で船を待つまに、兼好の弟子の命松丸から、ふところ飼いの仔雀をもらって、たい....
「随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
|尊良と宗良の二皇子は、土佐と讃岐へ流された。 その途中、皇子の一行は、播磨の
加古川附近で、後醍醐の護送を見かけられた。で「父に一ト目会わせてほしい」と、武者....
「黒田如水」より 著者:吉川英治
磨へ下った。整備陣容はさらに堂々強化されていた。 現地の与党、織田方の一群は、
加古川まで出迎えに出ていた。こういう事も元より黒田官兵衛の才覚で、秀吉の中国入り....
「日本の伝説」より 著者:柳田国男
の若い者は法師を試して見ようと思って、鮒のなます これと全く同じ話は、また播州
加古川の教信寺の池にもありました。加古の教信という人は、信心深い念仏者でありまし....