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北嶺
「北嶺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
北嶺の前後の文節・文章を表示しています。該当する7件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「邪宗門」より 著者:芥川竜之介
、天狗《てんぐ》のように嘲笑《あざわら》いますと、
「これはまた笑止千万な。南都
北嶺とやらの聖《ひじり》僧たちも少からぬように見うけたが、一人《ひとり》としてこ....
「出家とその弟子」より 著者:倉田百三
にお気の毒に思います。私は何もむつかしい事は存じませぬのでな。その儀ならば南都|
北嶺にゆゆしき学者たちがおられます。そこに行ってお聞きなされませ。 同行一 御謙....
「サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
呼ばれることになったのは、彼らが、もしくは彼らの一部が、南都末の清水寺から離れて
北嶺末の祇園感神院の所属となり、犬神人として著名になった為であろう。かくて、それ....
「法然行伝」より 著者:中里介山
真僧正は、この法門はわれ一人のみ聴聞すべきにあらずと云うて、諸方に触れをして南都
北嶺の高僧達を招き集めることにした。文治二年秋の頃、顕真の請によって法然は大原へ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
は、さながら谷間落葉を吹きあげる山風のすさまじさそのままといってもいい。――南嶺
北嶺の高きにある堂塔をおどり出た大衆の集合はもっと早かった。 そして、大衆論議....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
清水坂の非人は祇園感神院に属し、奈良坂のは東大寺に属しておったから、ここにも南都
北嶺争覇の影響が及んでいたものらしく、仁治、寛元年間に縄張争い等の事から軋轢を始....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
園感神院が延暦寺末であったがために、両者常に相敵視するの間柄であった。かくて南都
北嶺の軋轢の結果、この清水坂の俗法師が感神院に属して、東大寺所属の奈良坂法師原と....