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「北朝〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

北朝の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
青蛙堂鬼談」より 著者:岡本綺堂
。 それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見した....
四条畷の戦」より 著者:菊池寛
足利氏に抵抗して居たのである。だからそうした分散的な諸勢力を一括した正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。 正平二年七月、畿内の官軍は本営を河....
玄海灘密航」より 著者:金史良
何故となくおっかなかった。隣りの部屋に一人の客がやって来たが、言葉がどうも郷里の北朝鮮系である。私はその夜中に客の寝ている部屋へはいって行った。そして密航に対し....
秋の筑波山」より 著者:大町桂月
に関東の一大豪族、武略と共に材能もありて、当時有数の人材也。然るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古にし、半生の忠節に泥を塗りて、終に賊....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
姫山は今日の姫路である。ここが姫路と呼び換えられたのは豊臣時代からのことで、南北朝時代には姫山と呼ばれていた。播磨路――姫山――それを聞かされて、小坂部は少し....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
紳これを賤みて東夷と貶称し、さらに一般に武士のことをも「えびす」という。鎌倉・南北朝ころの日記・記録・古文書等にはなはだ多く散見するところなり。征夷大将軍はもと....
迷信解」より 著者:井上円了
ときと違い、死ぬればさほどまでに鈍くなるものかと疑わしむ。正成が恨むべきものは、北朝方の大将より始めて幾人もあるべし。しかるに、その方をさしおきて彦七をおどしか....
国号の由来」より 著者:喜田貞吉
那の日本府の臣、及び諸旱岐に呉の財を贈るとある場合のクレも、当時支那においては南北朝既に合一した後の隋のことであり、この他にも百済人が隋を呉と称した例が日本紀に....
憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられた....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
因はこれであったといわれる。そしてこれが吉野時代の両朝対立にまでひびくのである。北朝は第一皇子の御血筋ではあったが、三種神器は吉野朝廷におわしたので、これが正統....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
武士には蝦夷すなわちエビス出身が多かったから、「徒然草」などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「夷」と云っております。鎌倉武士の事を「東夷....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
事していたことは、大学寮の古図に余戸の一区が画されているのによって察せられる。南北朝から室町時代の文書にしばしば見えている東寺の散所法師の如きも、またこの類であ....
「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
「穢多非人の由来」(「史学雑誌」第一巻第十三号)発表以来、普通に学者の間には、南北朝の頃貞治元年の「師守記」の記事にあるという事に認められている。ただこの頃既に....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
トの所為である。 ツルメソはまた、京都市内の葬式に干渉する特権を持っていた。南北朝時代にも、彼らを経ずして葬儀を営んだが為に、彼らから故障をつけられたという事....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
直義(花押) 謹上 三宝院大僧正御房 とある。それでもなお南北朝戦乱の際には、他の工事に駆り出されたとみえて、その抗議に対し、 仰執達如件。....