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北畠
「北畠〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
北畠の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「長篠合戦」より 著者:菊池寛
を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村勅養寺附近の天神山に、次男
北畠信雄は稲葉一徹属して御堂山に、夫々陣を布いた。更に川上村茶臼山には、佐久間|....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
ない貴族の通性であろう。彼等はしばしば厳然たる存在である武家を無視しようとした。
北畠親房は『神皇正統記』に於て、武家の恩賞を論じて「天の功を盗みて、おのが功と思....
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
伝流と云った。 門弟一万を越える中、その最も有名なのは足利将軍義輝公、伊勢国司
北畠|具教で、後年柳生但馬守が徳川将軍に教授したのと、天下二師範の名の下に並称さ....
「伊勢之巻」より 著者:泉鏡花
木と観じて、独り寂寞として茶を煮る媼、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤か、
北畠殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈を、思いもかけぬ上客一|人、引手夥多の彼処を....
「南蛮秘話森右近丸」より 著者:国枝史郎
何と荒れているのだろう。廃屋と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、
北畠氏の傍流の主人、多門兵衛尉教之殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生....
「弓道中祖伝」より 著者:国枝史郎
的に、策動している南朝方の、多くの武士が諸方にあった。すなわち新田の残党や、又、
北畠の残党や、楠氏の残党その者達である。で、そういう武士達は、時勢がだんだん逼塞....
「血ぬられた懐刀」より 著者:国枝史郎
魅せられたか! よくも某を欺むかれたな!」 こう罵ったのは若い武士で、その名を
北畠秋安と云って、年は二十三であった。 罵られているのは若い娘で、名は萩野、十....
「馬妖記」より 著者:岡本綺堂
いうことは、どの人の見たところも皆一致していた。 この報告を聞いて、城中の医師
北畠式部はいった。 「それは海馬などと言うべきものではあるまい。海馬は普通にあし....
「秋の筑波山」より 著者:大町桂月
、筑波登山の外、関城趾の覧古を兼ねたる也。 日本歴史に趣味を有する者は、何人も
北畠|親房の関城書といふ者を知れるなるべし。其書、群書類従の中に収めらる。これ当....
「旅への誘い」より 著者:織田作之助
京の女子専門学校の寄宿舎へ入れ、そして自分は生国魂神社の近くにあった家を畳んで、
北畠のみすぼらしいアパートへ移り、洋裁学院の先生になったその日から、もう自分の若....
「小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
てもその弟の義助がいる、楠正成はほろびてもその子の正行がいる。そのほかにも奥州の
北畠、九州の菊池、四国の土居得能、それらはいずれも南朝に忠節を尽くそうとして、思....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
。しかし実を云えば、この両君の所説以外にも、自ら法隆寺大御所を以て任じておられた
北畠治房男爵を始めとして、非再建の意見を有するものが少くなかった次第であったから....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
|金崎城の露と消えておられる。為世の世を去る年には、その新田義貞も藤島に討死し、
北畠顕家も石津に戦死して、足利尊氏が将軍となった。翌延元四年には後醍醐天皇が吉野....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
罷り出でて色々の曲舞を奏した者も、亦唱門師であった。 言継卿の頃には、京都では
北畠と桜町とに声聞師の部落が分かれていた。後者は禁中に近かったので、「御近所の声....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
ていふならば、桜町の放免うりの類かと云へり」とある。桜町は「山科言継卿日記」に、
北畠とともに声聞師の居所として知られた所で、ここに後までも放免と名に呼ばれたもの....