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卅
「卅〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
卅の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「幽霊塔」より 著者:黒岩涙香
此の時は先刻茲を去ってから既に五時間も経って居る、余は卓子に凭れて纔《わず》かに
卅分ほど微睡《まどろ》んだ積りだけれど四時間の余眠ったと見える、頓て叔父の室に入....
「紀行文家の群れ」より 著者:小島烏水
烏水大兄 九日花袋 半紙一枚に、墨筆で書いてある。状袋の裏には、牛込区若松町百
卅七田山花袋とある。文中の『大日本地誌』は、山崎直方佐藤伝蔵両氏の編で、地質地形....
「連環記」より 著者:幸田露伴
居た間に懐胎したが、何様いう因縁かで兼盛と別れて時用の許へ帰したのである。兼盛は
卅六歌仙の一人であり、是忠親王の曾孫であり、父の篤行から平姓を賜わり、和漢の才も....
「死者の書」より 著者:折口信夫
うた人々が、多かったのである。 そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。
卅年も昔、――天平八年厳命が降って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣が....
「探偵夜話」より 著者:岡本綺堂
たのであった。 「おはいんなさい。」と、姉は返事をしながら入口の障子をあけると、
卅二三の薄い口ひげを生やした男が洋傘をすぼめて立っていた。 「や、お客様ですか。....
「演出者として」より 著者:岸田国士
だした因縁と経路を話せば、そもそも最初にこの風変りな戯曲にぶつかつたのは、今から
卅年前、たまたま世界巡業の旅にあつたモスクワ芸術座の舞台をパリで観た時である。 ....
「虎」より 著者:岡本綺堂
をして置く必要がある。由兵衛は浅草の山谷に住んでいて、ことし五十の独り者。友蔵は
卅一、幸吉は廿六で、本所の番場町、多田の薬師の近所の裏長屋に住んでいる。幸吉はま....
「秋の筑波山」より 著者:大町桂月
りぬ。 筑波に遊ぶこと、これで三度目也。在来の書物には、筑波町より頂上まで一里
卅二町とあれどこの頃新しく処々に立てられたる木標の示す所によれば、男体山まで廿一....
「武田麟太郎追悼」より 著者:織田作之助
を皿にしていた。(これは私一人ではあるまい)そして、見つけたのは「武田麟太郎三月
卅一日朝急逝す」 死んでもいい人間が佃煮にするくらいいるのに、こんな人が死んで....
「夜の構図」より 著者:織田作之助
、蜂谷重吉の死亡広告が出ているでしょう」 「ええ」 「元衆議院議員蜂谷重吉昨七月
卅一日永眠仕候。――とあるでしょう。あなたは蜂谷と言う代議士を知っていますか」 ....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
。同君は群書類従所収聖徳太子伝補闕記の記事によって、日本紀の天智天皇九年庚午四月
卅日夜半の法隆寺火災の記事は、その実推古天皇十八年の庚午四月
卅日夜半に起ったもの....
「サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
である。この説は既に室町時代に行われたもので、蔭涼軒日録(長享二年八月十一日及び
卅一日条)にもその事が見えている。燕丹のこともとより僻説取るに足らぬものではある....
「ある日の午後」より 著者:小川未明
られていた。小さな箪笥もあった。しかしすべて一台で足りたのである。軒下には窶れた
卅五六の女が乳飲児を負って悄然と立って車について行く処であった。其の日から、其の....
「絶望より生ずる文芸」より 著者:小川未明
ずには居られない。苟も吾々の肉体に於て、有ゆる外界の刺戟に堪え得るは僅に廿歳より
卅歳位迄の極めて短かい年月ではないか、そして年と共に肉体的の疲労を感じて来て何程....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
。 候。恐々謹言。 (足利) 康永二年十月
卅日 直義(花押) 謹上 三宝院大僧正御房 とある....