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「半蔵門〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

半蔵門の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
ぼり》の牛《うし》ガ淵《ふち》。――名からしてあんまり気味のいい名まえではない。半蔵門から左へつづいたあの一帯が、今もその名の伝わる牛ガ淵ですが、むかしはあれを....
右門捕物帖」より 著者:佐々木味津三
件の起きたときより約二十年後の承応三年ですから、このときはまだもと山王、すなわち半蔵門外の貝塚《かいづか》に鎮座ましましていたのですが、時代は徳川お三代の名君家....
夜行巡査」より 著者:泉鏡花
ら、行けというに」 三 「伯父《おじ》さんおあぶのうございますよ」半蔵門の方より来たりて、いまや堀端《ほりばた》に曲がらんとするとき、一個の年紀《....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。 堀端の柳は半蔵門から日比谷まで続いているが、此処の柳はその反対の側に立っているのである。ど....
山県有朋の靴」より 著者:佐々木味津三
。こちらへいっては、お屋敷へまいられませんか」 「行って行かれないことはないが、半蔵門へかえるのに、本所なぞへいっては大廻りじゃ。吾妻橋へ引っ返せ」 「でも、馬....
白髪鬼」より 著者:岡本綺堂
、その謎だけはまだ本当に解けないのです。 今から十五年ほど前に、わたしは麹町の半蔵門に近いところに下宿生活をして、神田のある法律学校に通っていたことがあります....
妖婆」より 著者:岡本綺堂
るので、十兵衛もすこしく不審をいだいて、ある日ひそかにその後を付けてゆくと、彼は半蔵門の堤づたいに歩み去って、濠の中へはいってしまったので、さてはお濠に棲む河童....
増上寺物語」より 著者:佐藤垢石
、徳川家の菩提所として定めたのは家康であった。家康が千代田城を政権の府とした頃、半蔵門の近くに観智国師という高僧が庵を結んでいた。家康はその徳に帰依して、国師に....
雪の一日」より 著者:岡本綺堂
三月二十日、土曜日。午前八時ごろに寝床を離れると、昨夜から降り出した雪はまだ止まない。二階の窓をあけて見ると、半蔵門の堤は真白に塗られている。電車の停留場には傘の影がいくつも重なり合って白く....
薬前薬後」より 著者:岡本綺堂
い日の朝晩には縁側へ出て小さい庭をながめることもある。わたしが現在住んでいるのは半蔵門に近いバラック建の二階家で、家も小さいが庭は更に小さく、わずかに八坪あまり....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
いろいろのことを考えさせられた。その頃はまだ電車はなかったので、わたしは銀座から半蔵門まで十銭に値切った人力車に乗って帰ったのであるが、日比谷の公園もまだその工....
年賀郵便」より 著者:岡本綺堂
ければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田|美土代町から数寄屋橋までの二線に過ぎず、市内....
御堀端三題」より 著者:岡本綺堂
立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。 堀ばたの柳は半蔵門から日比谷まで続いているが、ここの柳はその反対の側に立っているのである。ど....
贋物」より 著者:葛西善蔵
した。 翌朝芳本と二人で、Sの紹介状を持って、Mといってかなり有名な日本画家を半蔵門近くの宅に訪ねて行った。Sから電話で頼んでもあったので、すぐ明るい日本室の....
私の履歴書」より 著者:井上貞治郎
した。 阪大佐太郎と別れて、私はまたひとりになった。そしてどこをどう歩いたのか半蔵門のあたりまできていた。「この土手に登るべからず」と書いてあるお堀の土手に登....