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「南北朝〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

南北朝の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
青蛙堂鬼談」より 著者:岡本綺堂
る。 それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見し....
雪たたき」より 著者:幸田露伴
て歩き出した。雪に汚れた革足袋の爪先の痕は美しい青畳の上に点々と印されてあった。南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐というものの手によって論語....
剣侠」より 著者:国枝史郎
原に関八州の兵を、雲霞の如くに集めたが、その時の費用もその金であり、ずっと下って南北朝時代となり、元弘三年新田義貞卿が、北條高時を滅ぼすべく、鎌倉に兵を進めよう....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
が巧妙だ。これを健康なる表現と云いますか。水鹿親分は一本には女性ナランとあるね。南北朝は元中九年(北朝の明徳三年)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を伝え....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
だろう? それから数代、必ず前天皇の子を皇太子に立てる風習はなぜだろう。 後年南北朝の休戦条約に交替に皇位継承というのがあるが、それは当時の新工夫ではなく、非....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
姫山は今日の姫路である。ここが姫路と呼び換えられたのは豊臣時代からのことで、南北朝時代には姫山と呼ばれていた。播磨路――姫山――それを聞かされて、小坂部は少....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
※紳これを賤みて東夷と貶称し、さらに一般に武士のことをも「えびす」という。鎌倉・南北朝ころの日記・記録・古文書等にはなはだ多く散見するところなり。征夷大将軍はも....
国号の由来」より 著者:喜田貞吉
任那の日本府の臣、及び諸旱岐に呉の財を贈るとある場合のクレも、当時支那においては南北朝既に合一した後の隋のことであり、この他にも百済人が隋を呉と称した例が日本紀....
憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
筮祈祷者等の徒ともなるのである。異民族がある霊的の能力を有すると信ぜられた事は、南北朝の頃にまでかのアイヌなる蝦夷の族が、霧を起し風を起すの術を有すると信ぜられ....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
名というが、この人の系図はあまりあてにならぬ。(頓阿については、斎藤清衛博士の『南北朝時代文学新史』に「頓阿法師の一生」という到れり尽せりの名論文があって、精し....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
と武士には蝦夷すなわちエビス出身が多かったから、「徒然草」などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「夷」と云っております。鎌倉武士の事を「東....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
従事していたことは、大学寮の古図に余戸の一区が画されているのによって察せられる。南北朝から室町時代の文書にしばしば見えている東寺の散所法師の如きも、またこの類で....
「エタ」名義考」より 著者:喜田貞吉
の「穢多非人の由来」(「史学雑誌」第一巻第十三号)発表以来、普通に学者の間には、南北朝の頃貞治元年の「師守記」の記事にあるという事に認められている。ただこの頃既....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
ビトの所為である。 ツルメソはまた、京都市内の葬式に干渉する特権を持っていた。南北朝時代にも、彼らを経ずして葬儀を営んだが為に、彼らから故障をつけられたという....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
直義(花押) 謹上 三宝院大僧正御房 とある。それでもなお南北朝戦乱の際には、他の工事に駆り出されたとみえて、その抗議に対し、 仰執達如件....