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南宗
「南宗〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
南宗の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「草枕」より 著者:夏目漱石
、御忙《おいそ》がしいくらいじゃ」 「おお左様《さよう》か、それは結構だ。やはり
南宗派《なんそうは》かな」 「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、こ....
「画学校時代」より 著者:上村松園
校長吉田秀穀さんで、画学校の校長を兼ねていられたのです。 教室は、 東宗 西宗
南宗 北宗 の四つに岐れていました。まるで仏教の学校のように感じます。東宗北宗な....
「艸木虫魚」より 著者:薄田泣菫
根対山は食味通として、立派な味覚を持っている一人だった。対山は岡田半江の高弟で、
南宗画家として明治の初年まで存えていた人だった。 対山はひどい酒好きだったが、....
「鵞湖仙人」より 著者:国枝史郎
侍は腕を組んで考え込んだ。 「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「
南宗流乾術第一|巻九|重天の左行篇だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消える....
「作画について」より 著者:上村松園
たと思っています。 年少の頃から、研究の推移をふり返ってみますと、大体において
南宗、北宗から円山四条派におよび、土佐や浮世絵などをもくぐって来、それに附加して....
「俳人蕪村」より 著者:正岡子規
衰運の極に生まれて盛んならんとして歿せしなり。蕪村はみずから画を造りしこと多く、
南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画にわかに勃興して美術史に一紀元を与....
「淡島椿岳」より 著者:内田魯庵
くのは誰にも知られていたが、極彩色の土佐画や花やかな四条派やあるいは溌墨淋漓たる
南宗画でなければ気に入らなかった当時の大多数の美術愛好者には大津絵風の椿岳の泥画....
「日和下駄」より 著者:永井荷風
の描いた『絵本|虫撰《むしえらび》』を愛して止《や》まざる理由は、この浮世絵師が
南宗《なんそう》の画家も四条派《しじょうは》の画家も決して描いた事のない極めて卑....
「想い出」より 著者:上村松園
別れていまして、東宗は柔らかい四条派で望月玉泉先生、西宗は西洋画で田村宗立先生、
南宗は巨勢小石先生、北宗は力のある四条派で鈴木松年先生がそれぞれ主任でした。私は....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
「そうでしょうね、どこか、違ったところが見えますもの」 「――それから、和泉の
南宗寺の住持にあげられたり、また、勅命をうけて、大徳寺の座主におされたこともある....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
になる) と、許していた。 こんどの訪問は、九州を遍歴して、先ごろから泉州の
南宗寺へ来て沢庵は杖をとめていたので、そこから久しぶりに、柳生父子の消息を手紙で....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
ゃない」
若い禅坊主は、自分の胸にかけている文筥を眼で示し、
「わしは、泉州の
南宗寺の者だが、このお館へ来ている宗彭沢庵どのへ、急な御書面をお届けするために出....
「宮本武蔵」より 著者:吉川英治
へ帰った」 こう語り出して、 「母の喪に服すこと一年、まもなく旅へ出て、泉州の
南宗寺へ身を寄せ、後には大徳寺へも参じ、また、光広卿などと共に、世の流転をよそに....
「フレップ・トリップ」より 著者:北原白秋
見るべきだろう。写生文にしてからがそうだ。ありのままの平面描写ということになる。
南宗画などの象徴的省略とは違う。もし写生という言葉を文字どおりに生命を写すと解し....