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「古川〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

古川の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
るもんだ」 その日はそれで帰ったが、熊の噂はだんだんに高くなった。それは麻布の古川《ふるかわ》の近所に住んでいる熊の膏薬屋が店の看板代りに飼って置いたものであ....
海異記」より 著者:泉鏡花
一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる....
海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
地区に警戒警報が出たらしい。 折柄、電車のへッドライトがこっちへ向かって来る。古川橋まで駈けて、それに乗る。五反田行だ。 岡東父子の顔が、闇の中に残る。 ....
河明り」より 著者:岡本かの子
れ込んでいた川は、こちらの西側ばかりを上流から申しますと、忍川、神田川、それから古川、これ三本だけでございました」 私は両国橋際で隅田川に入り、その小河口にあ....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
という料理屋がある。それを筆頭として天ぷら屋の大新、同じく天虎、藪蕎麦、牛肉屋の古川、鳥屋の大黒屋ぐらいに過ぎず、西側では料理屋の千歳、そば屋の福寿庵、横町へは....
支倉事件」より 著者:甲賀三郎
四十一年十二月二十九日開通 自一ノ橋|至赤羽橋 明治四十二年六月二十二日開通 自古川橋|至目黒停車場前 大正二年九月十八日開通 備考 所在明示の為め別紙電車運転....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
水の城、其奥に弱い味方の木村父子が居るがそれは一揆《いっき》が囲んでいる、東には古川城、東々南には鳴瀬川の股に師山城、松山城、新沼城、下新田城、川南には山に依っ....
獄中消息」より 著者:大杉栄
りその竹の棚の中にある。持って行くのは、宇都宮か誰かに頼んだらよかろう。それから古川浩のところに事情を話して、差入れのできないことを言ってやってくれ。 手紙は....
最古日本の女性生活の根柢」より 著者:折口信夫
本武尊らの母|印南大郎女(播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて逃げて、加古川の川口の印南都麻という島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、その島に向い....
死剣と生縄」より 著者:江見水蔭
のだ。 講武所に学びては、主として今堀摂津守の指南を受けていたが、其他に、麻布古川端に浪居して天心独名流から更に一派を開きたる秋岡陣風斎に愛され、一師一弟の別....
宝塚生い立ちの記」より 著者:小林一三
から起きるし、駅に着けば疲れもいとわずに降りて歌うし、だれよりも頑張る。あるとき古川ロッパ君の一座に貸したことがあったが、帰って来て、 『もうこりごりです。男の....
二葉亭余談」より 著者:内田魯庵
が、一つでは足りないで二つまでペロリと平らげる事が度々であった。 二葉亭の恩師古川常一郎も交友間に聞えた食道楽であった。かつて或る暴風雨の日に俄に鰻が喰いたく....
二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
莫逆たる西源四郎も同じ語学校の支那語科に在籍していたので、西は当時の露語科の教師古川常一郎の義弟であったからなお更|益々交誼を厚くした。その後間もなく西が外務の....
俗臭」より 著者:織田作之助
って行くと、児子はん、あんたは商い下手や。廃球は一個二厘が相場やというのである。古川という電球屋はしかし、暫く廃球を調べてから、おまはんの事やから、まあ一銭で買....
芝、麻布」より 著者:小山内薫
てはいなかった。私は慶応義塾へ歩いて通えるのが第一都合がよかった。私は一週に一度古川橋を渡って、綱町の高台へ登って、それから坂を降りて、裏門から三田の教室へ行っ....