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吾妻鏡
「吾妻鏡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
吾妻鏡の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「鉄面皮」より 著者:太宰治
近国の御家人等群参す。廿九日、己巳、雨降る、将軍家御|平癒の間、御|沐浴有り。(
吾妻鏡。以下同断) おたずねの鎌倉右大臣さまに就いて、それでは私の見たところ聞....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
郷の後と称することあらん。仮托の起れる、けだしその後にある知るべきなり。しかも『
吾妻鏡』文治五年九月七日条には、由利八郎の語を録していう、「故御館(泰衡)は秀衡....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
越寺を建立した。不幸にしてこの寺はほとんど当時の何物をも後世に遺していないが、『
吾妻鏡』の記するところによると、中尊寺よりもその規模遙かに宏大なりしがごとくに思....
「憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
に洪水を起して、畳の上で人を溺らせたりした様な恐ろしい奇術者も、僅かに今昔物語や
吾妻鏡にその霊妙なる放れ業の記事を止めているのみで、後世その伝説が全く失われてし....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
景良雖 玉海、仁安二年十二月九日条、 摂政・左府・下官・内府等、皆手長之。
吾妻鏡、康元二年二月二日条、 仲家役送。 大乗院寺社雑事記、文明十二年七月二日....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
長く同地を補陀洛渡海の解纜《かいらん》地としたのである。 鎌倉幕府の記録である
吾妻鏡天福元年五月二十七日の条には、聴くも憐《あわ》れな補陀洛渡海の事件が載せて....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
の宝であった『万葉集』を献じたので、実朝は非常に喜んで、握玩措かなかったことが『
吾妻鏡』に見えている。そして十二月に『金槐集』が出来た。 『金槐集』は実朝の歌集....
「無月物語」より 著者:久生十蘭
差し、伴も連れずに馬で膳所《ぜぜ》の遊女宿へ通った。遠江《とおとうみ》の橋本宿は
吾妻鏡にも見える遊女の本場だが、気がむけばそのまま遠江まで足をのばすという寛濶さ....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
余騎が、水鳥の羽音を敵襲と間違え、仰天して、都へ逃げ帰ってしまう。ということで、
吾妻鏡を初め、盛衰記や平家物語でも、およそ人口に膾炙されているところだ。 へん....
「山の人生」より 著者:柳田国男
記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『
吾妻鏡』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。し....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
と郡名のなかった別の所に、新たに山本の旧郡名を当てたのである。 仙北あるいは『
吾妻鏡』に千福ともある。例の奥羽訛りによってセンポクとセンプクと、その区別がしに....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
」の語を添えて、何々坊と呼ぶこともできてきた。けだしそれは坊の語の転用である。『
吾妻鏡』文治二年三月の条に、 。―― また、同書文治元年十一月の条にも、 之悪....
「春の大方山」より 著者:木暮理太郎
五月に源頼朝が富士の巻狩を行った時に、旅館を構えた遺蹟であると伝えられている。『
吾妻鏡』には神野の旅館、『曾我物語』には井出の屋形と書かれてある。狩宿の名から推....