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四天王寺
「四天王寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
四天王寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「荒雄川のほとり」より 著者:佐左木俊郎
ある。 南方の丘陵が武将の旧跡なら、北方の丘陵は宗教の丘である。即ち聖徳太子の
四天王寺の一つが今の地名をなしている。豪壮な伽藍《がらん》は、幾度も兵火にあいな....
「夢殿」より 著者:楠山正雄
邪魔を払って、仏さまのお教えがずんずんひろまるようになりました。摂津の大阪にある
四天王寺、大和の奈良に近い法隆寺などは、みな太子のお建てになった古い古いお寺でご....
「山越しの阿弥陀像の画因」より 著者:折口信夫
深く仏者の懐に採り入れられて来たことが、ちっとでも訣って貰えれば、と考えていた。
四天王寺西門は、昔から謂われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の....
「日本上古の硬外交」より 著者:国枝史郎
高度文化を築上げ、既に官位十二階、憲法十七条を定め、朝礼を改正し、暦日を採用し、
四天王寺、法隆寺等の世界的優秀の寺院をも建立し、儒教の思想を咀嚼し仏教の教理を摂....
「東洋文化史における仏教の地位」より 著者:高楠順次郎
モン僧正がいる。その船が大阪に入って来ますというとこれを迎えに出たのが行基菩薩、
四天王寺にあった雅楽寮の楽師を率いて、海口に迎えました。行基菩薩が迎えるというと....
「法隆寺再建非再建論の回顧」より 著者:喜田貞吉
なお言わば、金堂と塔とが左右に相並ぶ法隆寺式伽藍の配置の如きも、この寺がもと
四天王寺の如く、計画的に堂塔の配置を設計して造営せられたものではなく、当初太子の....
「法然行伝」より 著者:中里介山
落したという。 念仏の間に文讃をいろいろ誦することの源はこの人からはじまった。
四天王寺の西門内外の念仏はこの聖《ひじり》が奏聞を経てはじめておいたものである。....
「仏教人生読本」より 著者:岡本かの子
、理想の現実化に向って力を尽されました。別して造塔、起仏に御熱心にて、自ら七寺(
四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池後寺、葛城寺)を建立せられた外、諸国に....
「鳴門秘帖」より 著者:吉川英治
行くのか、何を目星か、縦から見ても横から見ても、掏摸とは思えぬ品のよい御寮人様。
四天王寺の日除地、この間までの桃畑が、掛け小屋御免で、道頓堀を掬ってきたような雑....
「鳴門秘帖」より 著者:吉川英治
「すると、拙者について、あれも阿波までまいるつもりでいるのか」 「それをお綱は、
四天王寺で犯した、自分の罪の償いだと信じているのですから、止めるわけにも行きませ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
く、正季は、多聞寺の内に、久子をたずねて、 「兄正成殿から、火急、軍勢をつれて、
四天王寺へ参会せよとの、急命がございました。留守もしばらくの間です。ここはお動き....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
こんな中でも失わず、日本心を甲冑に誇っていた者もある。 赤坂攻めにかかる前か。
四天王寺の大鳥居の左の柱には、たれの業か墨匂わしく「花咲かぬ老い木のさくら朽ちぬ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
き年ごろなのに……と再三、母上へお手紙を下さいました」 「正季がか?」 「はい。
四天王寺の御陣所からです。……それでじつは、叔父君を
四天王寺にお訪ねして、京へ廻....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
「それは訊くな」 右馬介は、まったく、あらたまった容になって。 「たしか近くの
四天王寺には、正成どのの御舎弟が陣所を構えていたはずだな」 「いえ、その正季さま....