国学[語句情報] » 国学

「国学〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

国学の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
自叙伝」より 著者:大杉栄
。 清洲の近くにいた丹羽何とかいう老人が、このお祖父さんの弟で、少しは名のある国学者だったように聞いている。その形見の硯や水入れが家にあった。そして僕が十五の....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
いが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天....
御萩と七種粥」より 著者:河上肇
って幸福なものであったのだと、私は考えている。 数え十五歳の時に、私は郷里の岩国学校(それは高等中学校の予備門となっていたもの)を卒業して、山口高等中学校の予....
水の女」より 著者:折口信夫
の水のいや復元に、み変若まし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。「生立」とあるところから、....
夢は呼び交す」より 著者:蒲原有明
国粋思想の抵抗によってそれほどの影響も受けずに、むしろ両々相待って進んで行った。国学の再興にしても、その根蔕には文化に対する新しい見解が含まれていた。 時代思....
光り合ういのち」より 著者:倉田百三
した。 「君はどこの学校ですか」 「僕はこの土地の商業学校を出ました。兄は東京の国学院大学に行っていますがね。僕は後とりじゃないし、正直なところ神主にはなりたく....
血曼陀羅紙帳武士」より 著者:国枝史郎
の郷士に、五味左衛門という者があり、忠右衛門と不和であった。理由は、二人ながら、国学者で、尊王家であったが、忠右衛門は、本居宣長の流れを汲む者であり、左衛門は、....
魚妖」より 著者:岡本綺堂
ご存じかも知れないが、蘆庵、蒿蹊、澄月、慈延といえば平安の四天王と呼ばれる和歌や国学の大家ですが、その蒿蹊がこういう話をしたそうです。家の名は忘れましたが、京に....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
おいてこれを述べたり。このことにつきては、すでに異説の発表せられたるものあり。『国学院雑誌』第二十巻第三号所載、斎藤美澄翁の駁文のごときこれなり。翁の所説は、同....
二葉亭余談」より 著者:内田魯庵
白ずくに三馬や京伝や其磧や西鶴を偉人のように持上げても、内心ではこの輩が堂々たる国学または儒林の先賢と肩を列べる資格があるとは少しも思っていなかった。渠らの人物....
奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
が夷種であったことの証拠は多く、かつて自著『読史百話』においてこれを述べ、後に『国学院雑誌』上の弁駁に対して、同誌第十九巻第十一号において述べておいた通りである....
間人考」より 著者:喜田貞吉
以て見れば、おそらく平安朝の博士達の私記によったものであろう。 しかるに従来の国学者国史家等、多く※部のハセツカベなることを承認しない。既に間人の土師人なるこ....
欧米各国 政教日記」より 著者:井上円了
説符合するところあるは、はなはだ奇怪ならずや。英人これを信ぜず。よって政教子、英国学士の著せる一書を出だしてこれを示す。某曰く、余はじめてこのことあるを聞く。仏....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
は石田吉貞氏「藤原為家論」(『国語と国文学』昭和十三年八月)、「藤原為家伝」(『国学院雑誌』昭和十四年三・四月)が立派である。 為家の室宇都宮頼綱女には為氏・....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
農民というものは、古い言葉では「おおみたから」と云っておりました。これまで普通に国学者の解釈では、農民は国家の宝である、天皇の「大御宝」であるという説明に満足し....