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坊門
「坊門〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
坊門の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「偸盗」より 著者:芥川竜之介
度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……
すると四条
坊門《しじょうぼうもん》の辻《つじ》を、南へやる赤糸毛《あかいとげ》の女車《おん....
「四条畷の戦」より 著者:菊池寛
ど大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を請うて入洛し、万里小路
坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充分なる恩賞に....
「東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
家の所有地があった。一は旧跡なる武者小路で、一年両度の地子百三十疋、ほかには六条
坊門の地子で、盆暮八十疋の収入があった。 以上は山城国に散在する所領からしての....
「「平家物語」ぬきほ(言文一致訳)」より 著者:作者不詳
せて主上夜な夜なお召になって居る内に姫君が一人お出来になった。此の姫君と申すのは
坊門の女院の御事である。 *桜町中納言は入道信西の子なり。此卿いたく桜を愛し....
「雪の宿り」より 著者:神西清
ぞれ分けてお納めになりました。京じゅうの土倉、酒屋など物持ちは言わずもがな、四条
坊門、五条油|小路あたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどって運....
「南蛮秘話森右近丸」より 著者:国枝史郎
も漕げ」 そこで小舟は駛り出した。 その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条
坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶ....
「明日は天気になれ」より 著者:坂口安吾
秀哉名人とが対局したことがある。このとき呉清源必勝の局面が打ち掛けになったとき、
坊門の棋士が総勢集まって研究し、前田六段(当時)がついに起死回生の名手を発見し、....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
儀でほろぼされた。清和源氏の正統はここに絶えた。 十三歳の十二月、後の内大臣|
坊門信清の女が北の方となって下ったときから、京都趣味は実朝の身辺にあったが、もと....
「頼朝の最後」より 著者:田中貢太郎
を命ぜられた。それは実朝の御台を迎えに往くためであった。実朝の御台は奏聞を経て、
坊門大納言信清卿の息女を迎えることになったので、鎌倉では容儀花麗の壮士を選んでそ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
、打物取って、討手方の一翼に入る。 かくて山本勢が、第一に押しよせた先は、四条
坊門ぢかい土岐左近の屋敷だった。 「ひそまれ――」 山本時綱は、兵をうしろに伏....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
、「――この男、用うべし」と、思ったのである。 かねがね、烏丸成輔、千種忠顕、
坊門ノ清忠など、急進的な公卿のあいだで、 「用うるによき男はないか」 と、心が....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
五条橋下中島の地、すなわち古えの六条河原の地にあった。(今の五条通りは古えの六条
坊門で、松原通りが五条通りであった。その松原通りから六条通り迄の間の河原を六条河....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
八九郎助 同 関助 京都皮田村 頭中様 この争いの結末は、茶筅等は京都四条
坊門極楽院空也堂の支配下であって、彼らの名前が同寺の古帳にあるとの主張であったが....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
道筋の鉢屋と、山陽道筋の茶筅とは、相変らず上人を祖述し、空也流の本山たる京都四条
坊門なる、紫雲山光勝寺との因縁を保っておった。 空也は下層民を率いて、ただに念....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
礼したり、あるいは朱房の十手を携えて捕方を勤めたりなどしても、依然として京都四条
坊門空也堂紫雲山光勝寺の門流と称しているのをみても察せられる。そして自分は、この....