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「城北〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

城北の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
あの時分」より 著者:国木田独歩
き、声までがつやをもち、やさしや、涙さえ催されます。 私が来た十九の時でした、城北大学といえば今では天下を三分してその一を保つとでも言いそうな勢いで、校舎も立....
海野十三敗戦日記」より 著者:海野十三
れた。 病院では、慶応病院、鉄道病院、済生会病院、松沢病院、青山脳病院、名古屋城北病院、県立脳病院など。 学校では慶応大学、早稲田大学、文理科大学、東京農大....
綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
、この際いよいよその感を深うしたのである。 劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城北方の李家屯という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが....
碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
惟敬は、身を立つる好機至れりとして、遊説の役を買って出たのである。八月末、平壌の城北|乾福山の麓に小西行長と会見した。何故行長が明の使と会見したかと云うと、行長....
大阪夏之陣」より 著者:菊池寛
大和川の長流東より来り、淀の大江|亦北より来って相合して、天満川の会流となりて、城北を廻りて、西南は瀬戸内海に臨んで、まことに天下の形勝である。 石山本願寺時....
小田原陣」より 著者:菊池寛
と犇き合って小田原城に迫って居る。 酒匂川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南....
支倉事件」より 著者:甲賀三郎
う話なんだね」 石子は思わず首を前へ突き出した。 「御承知の通り私は四年生まで城北中学にいましたが、小林と云う理科の先生がありましてね、基督教信者でしたが、娘....
みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
ぱいであった。 古い士族町、新しい商業町、場末のボロ町を通って、岩木川を渡り、城北三里|板柳村の方へ向うた。まだ雪を見ぬ岩木山は、十月の朝日に桔梗の花の色をし....
十二支考」より 著者:南方熊楠
われば、最良種を生ずると想像するに及んだらしい。『大唐西域記』一に、〈屈支国東境城北天祠の前に大竜池あり、諸竜形を易《か》え牝馬と交合し、ついに竜駒を生む、※※....
鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
たのを、他から止められたのだそうな。それから宇佐美の住んでいた邸も召上げられて、城北へ別に悪い邸を賜わる事となった。私もそこへ行って見たが、穢い上に、城山の北の....
電車停留場」より 著者:豊島与志雄
そのまま立ちつくした。 野口昌作を殴りつけた、麦藁帽に浴衣がけのこの正義派は、城北中学校柔道師範、講道館二段の免許を有する、高倉玄蔵という三十歳に満たない青年....
沼畔小話集」より 著者:犬田卯
の巡査へ来たとき、彼はもはや消えていたのである。が、あとで捕まった。男爵閣下は茨城北部のある町の床屋さんであった。道理で汚ない風姿はしていても、いつも髪だけはき....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
。 なんでもその年の九月なかばと覚えている。遼陽戦がわが勝利に終って、わたしが城北の大紙房という村落に舎営している時のことであった。満洲の秋は早いので、もう薄....
憑き物系統に関する民族的研究」より 著者:喜田貞吉
もともと護法なる天狗の棲処であったということは、果していかなる意味であろうか。山城北部の八瀬の村人は、かつては自分で鬼の子孫であることを認めておったもので、それ....
南半球五万哩」より 著者:井上円了
入らず。寒暖は八十度以上なり。周囲に樹木の鬱蒼を見るは、いささか趣を添う。 保都城北路、樹満昼陰陰、港上清風足、我来此洗襟。 (保都市の北の道は、樹木がうっそう....