増鏡[語句情報] » 増鏡

「増鏡〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

増鏡の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
四条畷の戦」より 著者:菊池寛
成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和|長年以下の凱旋諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行列は二条富小路の内裏から、東寺の門まで絡繹として続いたとあ....
魔法修行者」より 著者:幸田露伴
か、不明であるが、何にせよ「げほう」という語は中古以来行われて、今に存している。増鏡巻五に、太政大臣|藤原公相の頭が大きくて大でこで、げほう好みだったので、「げ....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
、生命を吹き込んだ柳川一蝶斎を座長として、これに加うるに、大神楽《だいかぐら》の増鏡磯吉、綱渡りの勝代、曲芸の玉本梅玉あたりを一座として、日本の朝野《ちょうや》....
人形の話」より 著者:折口信夫
せんはいかが。」 おぼえ給へらん所々にてものたまへ、こよひ誰も御伽せん。」 (増鏡) いや一人居やらば伽をしてやらう。 (狂言 節分) 「御伽」ということの....
武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
。しかしてこれ、必ずしも東夷の謂にあらずして、一般武士を言えるものなりとす。 『増鏡』つげの小櫛の条に、 御子は十月三日御元服し給ひて、久明の親王と聞こゆめり....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
負うときには、恐らくは敢てし得ないような思い切った英断が感じられるのであって、『増鏡』の「おどろの下」に記されているように、 各々奉れる歌を院の御前にて自らみが....
私本太平記」より 著者:吉川英治
。 それと、三十一という遅い御即位だったせいもあろう。 当時の人の筆に成る“増鏡”にも、他の一女性について。 ――この大納言(藤原為世)の女、為子の君とて、....
私本太平記」より 著者:吉川英治
っては、またしても、天下の耳目をおおいえない大失態を招いてしまった。 それは「増鏡」にも見える記事なのである。信憑していいと思う。 伏見天皇の正応三年三月。....
私本太平記」より 著者:吉川英治
わかった! とする大衆の応えが、鬨の声をなして、全山をどっと身震いさせた。 「増鏡」の筆者は、この国家的事件のあった日には、まだ若年か幼少かであったかもわから....
私本太平記」より 著者:吉川英治
しいお声がしていた。 花|埃りだ。ひどい黄塵だ。しかし花見の喧騒ではない。 「増鏡」のいう、 ――かくてしも 世に珍らしき見物なり それを見損なッてはと、押....
私本太平記」より 著者:吉川英治
”といっていた。 が便宜上、長年を使ってゆく。 それと「伯耆巻」「船上記」「増鏡」「梅松論」すべてが、帝の潜幸事情を、漂流者のあてなしみたいに観て、長年もま....
私本太平記」より 著者:吉川英治
くれば、六月六日。 東寺から二条|里内裏までの行列は、荘厳をきわめていた。 「増鏡」はその壮大な列を写して、 ――先陣は二条富ノ小路の内裏に着かせ給ひぬれど....
私本太平記」より 著者:吉川英治
見えられ、御随身どもと一つに、舞謡の手拍子などに興じ入られたと、この日のさまは「増鏡」の“むら時雨の巻”にも眼のあたり目に見るように描かれている―― 暮れかかる....
随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
の創作である。が、時代の風潮、点景人物、後醍醐帝の朝覲の儀など、おもなることは“増鏡”やその他の史実に拠った。――その日、私たちのために案内の労をとってくれた足....