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壮時
「壮時〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
壮時の前後の文節・文章を表示しています。該当する12件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「運命」より 著者:幸田露伴
し、絶えて欹側詭※の言を為さず、放逸曠達の態無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋し
壮時の作と雖も、其の本色なり。談詩五首の一に曰く、 世を挙って 皆|宗とす 李杜....
「死生」より 著者:幸徳秋水
っては、此の「働き盛り」を過ぎては殆どダメで、如何なる強弩も其末魯縞を穿ち得ず、
壮時の麒麟も老いては大抵驢馬となって了うのである。 力士の如き其最も著しき例で....
「李陵」より 著者:中島敦
かくど》した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈《はげ》しさは
壮時に超えている。神仙《しんせん》の説を好み方士巫覡《ほうしふげき》の類を信じた....
「渋江抽斎」より 著者:森鴎外
殆ど全く禁じていた。しかし稀に飴と上等の煎餅とを食べることがあった。 抽斎が少
壮時代に毫も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のた....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
を、吾輩何と雑言したりとて破り撤《す》てしめ得らりょうぞ。さてついでに申し置くは
壮時随分諸邦を歩いた時の事と思《おぼ》し召せ。ある邦の元首大漸の公報に、その詳細....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
生ありと出づるがどうもあり得べからざる事で、『※軒《ゆうけん》小録』に伊藤仁斎の
壮時京都近辺の医者が津軽から果然を持ち来ったと記載しあるを読むと、夜分尾で面を掩....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
た菊池三渓《きくちさんけい》の『本朝|虞初《ぐしょ》新誌』中巻に出でいた。馬琴が
壮時一室に籠って小説を考案中、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今....
「死刑の前」より 著者:幸徳秋水
とんどダメで、いかなる強弩(強力な石矢)もその末は魯縞(うすい布)をうがちえず、
壮時の麒麟も、老いてはたいてい駑馬にも劣るようになる。 力士などは、そのもっと....
「旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
じみ深い景色である。細川下邸の清正公門前の大きな椎《しい》の木の並んだ下には、少
壮時代の前かけがけ姿の清方《きよかた》さんが長く住まわれて、門柱に「かぶらき」と....
「取舵」より 著者:泉鏡花
れつつ、半時間の後その命を拾いしなり。この老いて盲なる活大権現は何者ぞ。渠はその
壮時において加賀の銭屋内閣が海軍の雄将として、北海の全権を掌握したりし磁石の又五郎なりけり。....
「上野」より 著者:永井荷風
南郭の門人宮瀬氏劉龍門というも明和安永の頃不忍池のほとりに居を卜した。大田南畝が
壮時劉龍門に従って詩を学んだことも、既にわたくしは葷斎漫筆なる鄙稿の中に記述した....
「江戸芸術論」より 著者:永井荷風
に入りて両者の板画は漸《ようや》く稀《まれ》になりぬ。春章は天明以後その晩年をば
壮時の如くに再び肉筆画の制作のみに送りき(春章は寛政四年に歿し文調は寛政八年に逝....