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「大徳寺〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

大徳寺の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
老年」より 著者:芥川竜之介
、電燈が影も落さないばかりに、ぼんやりともっている。三尺の平床《ひらどこ》には、大徳寺物の軸がさびしくかかって、支那水仙であろう、青い芽をつつましくふいた、白交....
阿部一族」より 著者:森鴎外
、鏡首座《きょうしゅざ》という僧が住持している。忌日《きにち》にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚《てんゆうおしょう》が京都から下向《げこう》する。年忌の営みは晴....
佐橋甚五郎」より 著者:森鴎外
の僧が朝鮮から様子を見に来た。徳川|家康《いえやす》は三人を紫野《むらさきの》の大徳寺《だいとくじ》に泊《と》まらせておいて、翌年の春|秀忠《ひでただ》といっし....
行人」より 著者:夏目漱石
ゃがけ》になるんだから」 「誰でしたっけね書き手は」 「それは分らないが、いずれ大徳寺か何か……」 「そうそう」 父はそれで懸物《かけもの》の講釈を切り上げよ....
賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
の代官なぞ、京都に来ているが、有名無実である。更に十月には独力信長の法事を、紫野大徳寺に行った。柴田等にも参列を勧めたが、やって来るわけもない。芝居でやる大徳寺....
魔法修行者」より 著者:幸田露伴
識で、人の尊む植通の言であったから、秀吉は徳善院玄以に命じて、九条近衛両家の議を大徳寺に聞かせた。両家は各※固くその議を執ったが、植通の言の方が根拠があって強か....
般若心経講義」より 著者:高神覚昇
ものはないわけです。 私の書斎には、死んだ父の遺物の一幅があります。それは紫野大徳寺の宙宝の書いた「松風十二時には無駄はないのです。身辺のあらゆるもの、自然の....
」より 著者:徳田秋声
いながら言った。 「その方は、もうすっかり駄目なんです。」 八 時々大徳寺などに立て籠っていたことのあるT―が、ぶらりと京都に立って行ってからは、深....
梅津只円翁伝」より 著者:杉山萠円
と同格である。 明治元年(翁五十二歳)、藩主長知公京都へ御上洛の節、同地|紫野大徳寺内、龍光院に御宿陣が定められた。その節御供した御納戸組九人の中、翁は長知公....
興津弥五右衛門の遺書」より 著者:森鴎外
田三右衛門、佐方源左衛門秀信、吉田兼庵相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺中|高桐院に御納骨いたし候。御生前において同寺|清巌和尚に御約束|有之候趣....
興津弥五右衛門の遺書(初稿)」より 著者:森鴎外
某が死遅れ候|迄なれば、御|咎も無之かと存じ候。 某|平生朋友等無之候えども、大徳寺|清宕和尚は年来|入懇に致しおり候えば、この遺書|国許へ御遣わし下され候前....
明治劇談 ランプの下にて」より 著者:岡本綺堂
であった。 五万円問題とは別であるが、明治三十四年の三月、歌舞伎座で「太閤記」大徳寺焼香場を出した。団十郎の秀吉、菊五郎の柴田勝家が呼びもので、これも日々の大....
明治懐顧」より 著者:上村松園
があって、毎月十一日に画会が開かれました。これには世話をするひとがいて、参考品を大徳寺とか妙心寺とか、そうした各方面から古名画を借りてきて陳列したのです。随分よ....
古陶磁の価値」より 著者:北大路魯山人
徳川時代になって物徂徠、あるいは良寛禅師とか、それからもっともよい字を書いたのは大徳寺の高僧たちであります。こういうようなよい字は中国には見られない、中国の字と....
良寛様の書」より 著者:北大路魯山人
ず俗書を生むかといえば、さようにばかりもいえないのである。それは黄檗当初における大徳寺派の僧侶中には黄檗に見るような俗健は一人として見うけられない事実がある。と....