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「天正〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

天正の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
三浦右衛門の最後」より 著者:菊池寛
駿河の府中から遠からぬ田舎である。天正の末年で酷《ひど》い盛夏の一日であった。もう十日も前から同じような日ばかりが....
恩を返す話」より 著者:菊池寛
った日にあうことを喜んだ。彼は少年の折から、一度は実地に使ってみたいと望んでいた天正祐定《てんしょうすけさだ》の陣刀を振り被りながら、難所を選んで戦うた。 し....
黒死館殺人事件」より 著者:小栗虫太郎
、FRCOの四字を、二十八葉|橄欖冠で包んである不思議な図案だった。 「これが、天正遣欧使の一人――千々石清左衛門|直員から始まっている、降矢木家の紋章なんだよ....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
ろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九....
長篠合戦」より 著者:菊池寛
の繁栄を得たわけである。 勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開....
賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
清洲会議之事天正十年六月十八日、尾州|清洲の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り....
碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
鶏林八道蹂躙之事 対馬の宗義智が、いやがる朝鮮の使者を無理に勧説して連れて来たのは天正十八年七月である。折柄秀吉は関東奥羽へ東征中で、聚楽の第に会見したのは十一月....
島原の乱」より 著者:菊池寛
束島などの島が有って、不知火有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も....
真田幸村」より 著者:菊池寛
わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。 家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせ....
小田原陣」より 著者:菊池寛
関東の北条天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないの....
灰燼十万巻」より 著者:内田魯庵
から元亀二年(南蛮寺創設後三年)までの通信八十八通を集めたもので、一五七五年即ち天正三年アルカラ(西班牙)の出版である。殊に此書は欧羅巴刊行の書籍中漢字を組入れ....
こま犬」より 著者:岡本綺堂
この村はずれに小袋ヶ岡というのがある。僕は故郷の歴史をよく知らないが、かの元亀天正の時代には長曽我部氏がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀....
小坂部姫」より 著者:岡本綺堂
禍いが大きくなって来たように見えた。 かの応仁の戦乱を始めとして、それから元亀天正に至る百余年の間、日本国じゅうに起こった大小の戦乱を一々かぞえ立てることは、....
かたき討雑感」より 著者:岡本綺堂
いったようなもので、それがいわゆる「かたき討」の形式となって現れて来たのは、元亀天正以後のことであるらしい。殊に徳川時代に入っていよいよ盛になったのは誰も知る通....
飛騨の怪談」より 著者:岡本綺堂
扁柏の大樹が日を遮って、山路は漸次に薄暗くなって来た。何処やらで猿の声が聞えた。天正十三年、所謂「飛騨の三方崩れ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変....