夷人[語句情報] »
夷人
「夷人〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
夷人の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「船医の立場」より 著者:菊池寛
あしず》りしながら叫んだ。 「なに、今にメリケンヘ渡ってあの術を奪ってやるのだ。
夷人《いじん》の利器によって
夷人を追い払うのだ」 寅二郎は、熱海の湯の宿で作っ....
「倫敦塔」より 著者:夏目漱石
そで》の先を括《くく》って腰のところを帯でしめている。服にも模様がある。模様は蝦
夷人《えぞじん》の着る半纏《はんてん》についているようなすこぶる単純の直線を並べ....
「東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
同様に考えられた蝦夷《えぞ》ヶ島に関する知識をも有しておった。というのは、彼が蝦
夷人と交際したのではなく、蝦夷ヶ島に渡った僧友松という者が上洛して彼を訪ねたから....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
る好著なり。されどあまりに濃厚なる蝦夷という色目鏡を掛けて古史を見たるがために、
夷人なりと認むるになんらの証左なき者をまでも多く
夷人として列挙したるの嫌いありて....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
も当時夷として認められたもので、これもかつて『歴史地理』第二十巻第四号の誌上に「
夷人清原武則」と題して述べておいた。しからばその安倍頼時の女を母とし、清原武貞を....
「「ケット」と「マット」」より 著者:喜田貞吉
の山地には、近くその実際を見るのである。これを我が古史に徴するに、西南薩隅の地に
夷人と呼ばれた隼人が奈良朝頃までもなお残存し、東北奥羽の地方には平安朝に至ってな....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
夷に対する睨みが利かなくなりました。のみならず、上に傚う下で、地方官はかえって蝦
夷人を虐待して、私利をのみ図るという有様でありましたから、一旦従っていたものもだ....
「オシラ神に関する二三の臆説」より 著者:喜田貞吉
だ。 先住土人の神を侵入者が氏神として祭り、また護法神として祭るのも、移住者が
夷人の神を家を護るの宅神として祭るのも、その動機は一つである。ここにおいて夷神す....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
を挙げ後で管見を加える。近藤正斎の辺要分解図考巻三に左の記事がある。 カラフト
夷人《アイヌ》(中略)の葬礼は、
夷人《アイヌ》初めて死するときは、刃物を以て死者....
「志士と経済」より 著者:服部之総
。江戸に引返して人夫稼ぎで暮していると、一日江戸の商家から横浜まで荷物を運んで、
夷人跳梁の有様をつぶさに見た。その後同じようなルンペン浪士と知り合って、
夷人斬り....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
た。狄俘とは夷俘というと同じく、蝦夷の生蕃の謂である。わが国では同じアイヌ種の蝦
夷人をでも、奥州を東とし、越後・出羽を北といったがために、シナの東夷・北狄の語を....
「言語と文化史」より 著者:知里真志保
っていたらしいことが古く文献に見えております。辺要分界図考という本に、ラッコ島の
夷人(たぶんアレウトかと思いますが)キモヘイという者がウルップ島へきて、その本国....
「性に関するアイヌの習俗」より 著者:河野広道
話は日本側の江戸時代古文書にも散見される。立松東作の東遊記(天明4年)には、「蝦
夷人人と道理をいいつのり、道理にまけたる方より勝たる方へ物をとる。之をツクナイと....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦
夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。正四位上勲二等....
「融和促進」より 著者:喜田貞吉
も、多くの人民が支那や朝鮮から移住しました。歴史時代にまで奥羽地方に遺っていた蝦
夷人らも、多数続々と内地へ移されました。そして奥羽地方へは、盛んに内地人を移住せ....