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「奈良坂〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

奈良坂の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
偸盗」より 著者:芥川竜之介
えやみ》で死んだの、筑紫《つくし》へ下ったのと言いおるわ。あとで聞けば、なんの、奈良坂《ならざか》のしるべのもとへ、一時身を寄せておったげじゃ。が、わしは、それ....
大和路・信濃路」より 著者:堀辰雄
ってゆきそうだ。…… ※ その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれた....
鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
もして夜行く人や梅の中 荷車の柳曳きずる埃かな うたゝ寝の覚むれば桃の日落ちたり奈良坂や桜に憩ふ油売 さくら折つて墓打ちたゝく狂女かな 北面に歌召されけり梨の花....
源氏物語」より 著者:紫式部
仏像、経巻の供養を初瀬では行なわせた。そのほかにも功徳のことを多くして帰る途中の奈良坂という山越えをしたころから大尼君のほうが病気になった。このままで京へまで伴....
両面競牡丹」より 著者:酒井嘉七
奈良坂やさゆり姫百合にりん咲き ――常磐津『両面月姿絵....
雪の宿り」より 著者:神西清
いるような気がする。この中を、仮に南都の衆徒三千が物の具に身をかためて、町なかを奈良坂へ押し出したとしても、その足音に気のつく者はおそらくあるまい。 申の刻に....
長吏名称考」より 著者:喜田貞吉
。 賤者に対してこの称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である。 本寺奈良坂非人陳申、 清水坂非人等条....
間人考」より 著者:喜田貞吉
には、通例古代にはハシタという語を用いた。大和物語に、 今日、日はしたになりぬ。奈良坂の彼方には人の宿り給ふべき家も候はず、こゝに宿り給へ。…… 竹取物語に、....
サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
と言わねばならぬ。 これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂非人文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見ゆる鎌....
私本太平記」より 著者:吉川英治
、この戦場にあらわれたなども、その一証といっていい。 奈良は、猛攻撃をうけた。奈良坂、東大寺附近、法華寺|界隈、手掻小路と、合戦は連日、熾烈をきわめた。――が....
牛捨場馬捨場」より 著者:喜田貞吉
もので、その勢力の往々盛んなるものの少からなんだ事は、寛元年間における清水坂及び奈良坂の坂の者たる非人法師等の闘争に関して、長吏法師の提出した訴状を見てもその一....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
からの落伍者の集まりで、それぞれ郷国の名を以て呼ぶ例であった。寛元年間の清水坂と奈良坂との非人闘争に関する訴訟文書を見ると、中には法仏法師とか、阿弥陀法師とかい....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
十座と連称して、別に一部落をなしていたものらしい。川上町の名は今も奈良市の北部、奈良坂の南に存し、北御門・出屋敷・東の坂など、またみな古えの川上郷の中である。こ....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
にはなはだしく有力なものができまして、鎌倉時代には京都清水坂の非人の長吏と、大和奈良坂の非人の長吏とが、山城の南部で縄張り争いをなし、ために血の雨を降らしたとい....
濫僧考補遺」より 著者:喜田貞吉
文を見出でたから、ここに補っておく。この書は鎌倉時代寛元四年に書いたもので、前記奈良坂非人法師と清水坂非人法師との間に悶着のあった頃に当る。この際春日において行....