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宇多天皇
「宇多天皇〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
宇多天皇の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
っちゅう》は、これも在来は日本武尊の御鎧《おんよろい》と伝えられたもので、実は後
宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです。 されば....
「日本イデオロギー論」より 著者:戸坂潤
、他の日本主義の一群のものとは異って、必ずしも〔絶対制〕主義でないということだ。
宇多天皇は藤原基経に向って「卿者社稷之臣、非朕之臣」と仰せられたそうだが、之こそ....
「日本上古の硬外交」より 著者:国枝史郎
つではあったが、もっと重大な原因は、隋、唐と国交を重ぬること推古天皇様十五年より
宇多天皇様寛平六年|迄二百八十八年に及びこの長い間に支那大陸の文化の尽くを日本は....
「道鏡皇胤論について」より 著者:喜田貞吉
であった。しかし藤原基経の権力は、一旦臣籍に降った侍従源定省を親王に復し、さらに
宇多天皇として推戴し奉った例も後には無いではない。ここに阿曾麻呂の奏上を容るる間....
「大力物語」より 著者:菊池寛
侶で、広沢の寛朝僧正という人である。大僧正になった人で、仏教の方でも有名であり、
宇多天皇の皇子の式部卿の宮の御子である。この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
ことだったと答えられたので、亀山天皇の親政となり、ついでその皇子が即位された。後
宇多天皇がそれである。両統の臣下も各々二つに分れて反目するに至った。幕府はそこで....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
への望みは断て) これに、ものをいわせて、亀山天皇はまもなく、わが御子を 後
宇多天皇 と立て、御自身は、待望の権力を剋ちとった。 ここに哀れをとどめたの....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
し先、蟹島(今の加島)は、あそこ、神崎はいま通って来た横の川。 鳥飼の院には、
宇多天皇と遊女|白女との佳話があるし、神崎には、藤原道長の子|頼通と遊女|中君と....