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安倍貞任
「安倍貞任〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
安倍貞任の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「旅愁」より 著者:横光利一
ぬ怨めしげな気持ちさえ覚えて来るのだった。
「年をへし糸の紊れの苦しさにという、
安倍貞任の歌があるが、あなたも、さアどうかしらなど云うところを見ると、貞任みたい....
「八幡太郎」より 著者:楠山正雄
いました。 二 大きくなって、義家はおとうさんの頼義について、奥州の
安倍貞任、宗任という兄弟の荒えびすを征伐に行きました。その戦は九|年もつづいて、....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
あろう。やがて一つの大作を初めました。それは衣川の役を主題としたもので、源義家と
安倍貞任とが戦中に立て引きをする処、……例の、衣の楯はほころびにけりという歌の所....
「武士を夷ということの考」より 著者:喜田貞吉
・上毛野等旧家の姓を賜わりたるものはなはだ多し。東奥六郡を占有して、王師に抗せし
安倍貞任の祖先のごとき、またその一なるべきか。仙北の首領清原氏、平泉に拠りし御館....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
る。これらの安東五郎といい、安藤太といい、安藤が二男というものはいずれも同人で、
安倍貞任の後と称し、実に後の秋田氏の祖先なのである。けだし奥地の夷酋が後に武家か....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
というとの事が、松屋筆記(七十八)に見えている。嘉永の富田永世著上野名跡誌には、
安倍貞任の残党の霊を祭ったのだとも、越後風土記に見えた土蜘蛛八握脛を祭ったのだと....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
の本将軍と呼ばれた安東氏などで、彼らの事蹟はこれを証明すべきものなのであります。
安倍貞任、清原武則、藤原清衡、これらの人々の事を後世誰が蝦夷だと思うものがありま....
「屍体と民俗」より 著者:中山太郎
る。京都府北桑田郡|周山《しゅうざん》村の八幡宮の縁起に、康平年中に源義家が反臣
安倍貞任を誅し、屍体を卜部《ウラベ》の勘文《かんもん》により四つに斬って四ヶ所に....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
在る所からも推知される。さらに京都府北桑田郡神吉村の八幡社は、康平の昔に源義家が
安倍貞任を誅し、その屍骸を埋めるに神占を行い、四ツに截って四ヶ所に葬ったが、それ....
「随筆 新平家」より 著者:吉川英治
隔の野性人を見るときに持つ嘲侮を平家の筆者も持っていた。それはそれ以前の、奥州の
安倍貞任を捕虜として殿上人が庭へすえたとき、梅の花を示して「これはなんという花か....
「遠野物語」より 著者:柳田国男
険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも
安倍貞任の母住めりと言い伝う。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆという。....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
厨川といい、これを越えるとすぐに柵址への上り口となる。ただしこの厨川というのは、
安倍貞任の最期を告げた奥州の厨川とは全然別の厨川だ。柵址には八幡神社が勧請せられ....
「特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
夷大将軍の棟梁坂上田村麿も、少くとも昔の奥州の人は蝦夷仲間だと思っておりました。
安倍貞任・清原武則・藤原清衡のような英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇士・歌....