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安元
「安元〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
安元の前後の文節・文章を表示しています。該当する13件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「十二支考」より 著者:南方熊楠
遂げ信濃国善光寺へ赴く時に年十九とある。建久四|癸丑《みずのとうし》年に十九なら
安元元|乙未《きのとひつじ》年すなわち未歳生まれで寅歳でない、『東鑑』は偽りなし....
「丹下左膳」より 著者:林不忘
の並木に、かかっています。 たいそう古いことを言うようですが、あの杉並木は、慶
安元年に駿河《するが》の久能山《くのうざん》に葬った権現様を、御遺言で日光山に改....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
考あったと覚ゆれど今ちょっと見出さず。『一話一言』一六に、『会津旧事雑考』より承
安元年|辛卯《かのとう》を耶麻郡新宮の神器の銘に、弥勒元辛卯と記した由を引き、三....
「日本天変地異記」より 著者:田中貢太郎
なども、それを裏書してあまりあるように思われる。 一 斉衡元暦の地震、
安元の火事 日本の地震で最初に文献にあらわれているのは、「日本書紀」の允恭天皇....
「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」より 著者:森鴎外
るのを見れば、これは何かの誤でなくてはならない。三斎の歿年から推せば、三回忌は慶
安元年になるからである。そこで改めて万治元年十三回忌とした。興津が長崎に往ったの....
「本朝変態葬礼史」より 著者:中山太郎
』なるものが、一般に流行したことを参考せねばならぬ。秋広王記《あきひろおうき》に
安元二年八月十五日に桂川(京都)の投身者十四人、十六日十二人、十七日二十八人、以....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
俊忠も中納言になったが、俊成は参議に任ぜられるように願ってついに望みをはたさず、
安元二年、六十三歳で出家して釈阿といった。現任の官職で参議に列すれば、ただの殿上....
「無月物語」より 著者:久生十蘭
れている藤原ノ忠文《ただぶみ》の四代の孫で、弁官、内蔵頭を経て大蔵卿に任ぜられ、
安元二年、従三位に進んで中納言になった。比叡の権僧正《ごんのそうじょう》である弟....
「三国志」より 著者:吉川英治
した。 その後、公卿たちは、戸帳を作り、住民の数を詮議し、同時に年号も、 建
安元年 と、改元した。 何にしても、皇居の仮普請が急がれたが、そういう状態な....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
が、昔はエタと非人との区別も判然せず、エタの事を河原者とも呼んでいた。室町時代文
安元年の「下学集」に、 とある。当時に於いては屠児すなわち獣肉を扱う者をも、河....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
暦寺の散所法師については、わずかに岩橋小弥太君から示された『応安嗷訴記』の、 応
安元年八月廿五日政所集会議曰、 重可事 来廿八日神輿入洛事、三塔既令事。 と....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
のであったが、その後いつとなくまた互いに華美を競うようになったとみえて、「吉記」
安元二年(高倉天皇朝)四月二十二日条に、賀茂祭の行列の状を記して、 右府生紀 兼....
「親鸞聖人について」より 著者:吉川英治
でしょうか、太政入道清盛も死んでいます。それから得度|剃髪九歳までの間に、年号は
安元、治承、養和と変わっておりまして、この間に木曾義仲の乱入、やがて平家都落ち、....