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「安永〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

安永の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
恩讐の彼方に」より 著者:菊池寛
、この姦夫姦婦《かんぷかんぷ》が、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永《あんえい》三年の秋の初めであった。後には、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之....
半七捕物帳」より 著者:岡本綺堂
、それを見たものは三日のうちに死ぬという。勿論めったに出逢った者も無いんですが、安永年間、水道端の荒木坂に店を開いている呉服屋渡世、松本屋忠左衛門のせがれは、二....
乱世」より 著者:菊池寛
二藩を慴服させた赤報隊は、意気揚々として、桑名藩へ殺到しようとして、桑名城の南、安永村に進んで、青雲寺という寺に本営を敷いた。その夜である。鳥取藩と芸州藩の諸隊....
十二神貝十郎手柄話」より 著者:国枝史郎
った。 (お喋舌り貝十郎が始まったぞ) 後世までも十二神貝十郎は、宝暦から明和安永へかけての名与力として謳われて、曲淵甲斐守や依田和泉守や牧野大隅守というよう....
柳営秘録かつえ蔵」より 著者:国枝史郎
りのその美貌、錦絵から抜け出した女形のようだ。 笠森お仙、公孫樹のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板と....
剣侠」より 著者:国枝史郎
ア、いよいよもって珍しくねえと、とつおいつ思案を致しました結果、噂によりますると安永年間、田沼主殿頭様の御代の頃、大変流行いたしまして、いまだに江戸じゃア流行っ....
安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
四年から元禄三年の七年間にわたる噴出によるのだそうで、二百六十年ほど昔のことだ。安永三年(西暦一七七四年)に今まで沙漠の中に、内輪山よりに残っていた熔岩をだした....
にらみ鯛 」より 著者:佐藤垢石
も四年も後のものを使用せねばならぬほどになった。 ところが、この奸吏共の悪事が安永三年の八月に至って抉剔され、一斉検挙となったのである。禁裡御賄頭田村肥後、御....
曲亭馬琴」より 著者:邦枝完二
で、石のように真面目だった。 「どんな物を読みなすった」 「まず先生のお作なら、安永七年にお書卸しの黄表紙お花半七を始め、翌年御開板の遊人三幅対、夏祭其翌年、小....
小坂部伝説」より 著者:岡本綺堂
うものを一部の纏まった狂言に作ってあるのは、この脚本のほかには無いらしい。これは安永八年三月、大坂の角の芝居に書きおろされたものである。 尾上家でそれを家の芸....
皇海山紀行」より 著者:木暮理太郎
項に、 座句山 栂原山也気乃曾里縁魔乃土也以。 砺砥沢 在。 座句沢 在。安永三年八月十九日の自序ある毛呂義郷の『上野国志』には、利根郡の山川の部に、 さ....
エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
タ・非人を町人・百姓から区別すべく厳命したのは、右の宝暦元年を後るる二十七年後の安永七年で、「百姓町人体に紛らし候ものは厳敷御仕置申付け候」とあった。これけだし....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
それは厳重に禁ぜられることとなった。取締りは年とともに次第に厳重になった。ことに安永七年に至って、非常に厳重なる取締法が発布せられて、エタ、非人と百姓、町人との....
融和促進」より 著者:喜田貞吉
して普通民と区別ができるようにしてしまいました。そのはなはだしくなったのは、近く安永七年以来のことで、まだ百五六十年にしかなりません。その以前にはそうひどくはな....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
とではありません。幕府が法令を下して、ことに厳重にその差別を取締まったのは、近く安永七年が最初であります。今からわずかに約百六十年前たるにすぎないのであります。....