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宝暦
「宝暦〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
宝暦の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「真景累ヶ淵」より 著者:三遊亭円朝
世帯《しょたい》を持って居りましたが丁度あの午年《うまどし》の大火事のあった時、
宝暦《ほうれき》十二年でございましたかね、其の時私は十七で子供を産んだのですが、....
「政談月の鏡」より 著者:三遊亭円朝
一 政談月の鏡と申す外題《げだい》を置きまして申し上《あぐ》るお話は、
宝暦《ほうれき》年間の町奉行で依田豐前守《よだぶぜんのかみ》様の御勤役中に長く掛....
「「いき」の構造」より 著者:九鬼周造
まず、横縞よりも縦縞の方が「いき」であるといえる。着物の縞柄《しまがら》としては
宝暦《ほうれき》ごろまでは横縞よりなかった。縞のことを織筋《おりすじ》といったが....
「仇討三態」より 著者:菊池寛
人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。 その三
宝暦三年、正月五日の夜のことである。 江戸牛込二十騎町の旗本鳥居孫太夫の家では....
「中国怪奇小説集」より 著者:岡本綺堂
第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。(博異記) 蒋武 唐の
宝暦年中、循州河源に蒋武という男があった。骨格たくましく、豪胆剛勇の生まれで、山....
「土俗玩具の話」より 著者:淡島寒月
記の鶉車の系統に属するものである。 鷹山上杉治憲公が日向|高鍋城主、秋月家より
宝暦十年の頃十歳にして、米沢上杉家へ養子となって封を襲うた関係上、九州の特色ある....
「西瓜」より 著者:岡本綺堂
をわたしの前に置いた。 「このあいだも話した通り、僕の家の六代前の主人は享保から
宝暦のころに生きていたのだそうで、雅号を杏雨といって俳句などもやったらしい。その....
「十二神貝十郎手柄話」より 著者:国枝史郎
ざるを得なかった。 (お喋舌り貝十郎が始まったぞ) 後世までも十二神貝十郎は、
宝暦から明和安永へかけての名与力として謳われて、曲淵甲斐守や依田和泉守や牧野大隅....
「塩原多助一代記」より 著者:三遊亭円朝
、田町へ出まして、これが品川で鎮火致しました、大きな火事でございましたが、これが
宝暦十年二月四日の夜に出まして、一日おいて又六日に出火致しましたのが神田旅籠町か....
「娘煙術師」より 著者:国枝史郎
いうことがそれである。したがって美作は同じ程度に、勤王思想を嫌忌した。で、有名な
宝暦事件、すなわち竹内式部なる処士が、徳大寺卿をはじめとして、京都の公卿に賓師と....
「京鹿子娘道成寺」より 著者:酒井嘉七
いたものでございます。 |○| この、娘道成寺と申す所作事は、
宝暦年間に、江戸の中村座で、中村富十郎が演じたものだそうでございまして、富十郎一....
「血友病」より 著者:小酒井不木
。そうして、幸に一度も病気をせず、又、月のものを見ないですんだのであります。私は
宝暦×年の今月今日に生れましたから、今日で丁度、満百五十歳になるので御座います。....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
戸数が四十二軒、その名前までが一々わかっているのであります。その後八十六年を経た
宝暦六年に至って、彼らもだんだん日本化して参りまして、もはやいつまでも蝦夷として....
「エタに対する圧迫の沿革」より 著者:喜田貞吉
で別物の如く扱うという風はあまりなかったらしい。徳島藩にてはその後七年の寛政四(
宝暦元)年に、左の如き取扱い方を示している。 一、諸願之義は村役人添書にて紙面指....
「エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
、士族に編入されたものであるそうな。(この士族編入事件には問題がないでもないが)
宝暦十年に、この野口与治兵衛から、仕丁頭中へ出した願書の控に、「私儀親代より引続....