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「宝永〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

宝永の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
高山の雪」より 著者:小島烏水
山腹に眼をうつすと、あの雪の中で藍になって雪が消えたように見える所がある。あれは宝永の噴火口で、雪が実際は消えていないのであるが、火口壁の陰影で、藍色に見えるの....
日本山岳景の特色」より 著者:小島烏水
うのは、みんな流水や、墜雪の浸蝕した痕跡であるが、あの御殿場口から登り初めると、宝永山の火山礫を冠った二箇の砂山が、山腹から約百尺も顔をもちあげて、裾を南へ引い....
雪中富士登山記」より 著者:小島烏水
ない。冴え冴えと鋭い紫がかった色調が、凸半球の大気に流動している。 六合目――宝永の新火口壁(いわゆる宝永山)まで来ると、さすがに高嶺の冬だと思われる冷たさが....
単独行」より 著者:加藤文太郎
合を考えると、気の弱い僕にはとてもやとう気がしないんだ。 それから皆と一緒に、宝永山の北側の浅い谷を登って行った。雪は風に少し作用を受けた粉雪で、ラッセルも無....
神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
六日。富士山焚。 永保三年二月二十八日。富士山焼燃焉。 永正八年。富士山鎌岩焚。宝永四年十一月二十三日。富士山東偏炎上、砂灰を吹出し、関東諸国の田園皆埋没す。 ....
不尽の高根」より 著者:小島烏水
水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、....
名古屋スケッチ」より 著者:小酒井不木
恋の重荷に乗せてやる伝馬町筋十八丁、其他町の数々を語り申さん聞き玉へ』 これは宝永七年、名古屋で刊行された『今様くどき』の名古屋町尽しの冒頭だがその碁盤割も、....
悪因縁の怨」より 著者:江見水蔭
と同体にして、弘法大師の作とあります。別当は真言宗にして、金生山龍王密院と号し、宝永八年四月、海誉法印の霊夢に由り……」 「宗匠、手帳を出して棒読みは恐れ入る。....
八犬伝談余」より 著者:内田魯庵
糸巻』に馬琴を出藍の才子と称し、「読本といふもの、天和の西鶴に起り、自笑・其磧、宝永正徳に鳴りしが馬琴には三舎すべし」と、京伝側を代表する京山が、これもまた案外....
ながうた勧進帳」より 著者:酒井嘉七
なしたことに疑いはない。……江戸長唄なる称呼が、判然と芝居番附に掲げられたのは、宝永元年のことである」 しかし、これは、劇場音楽としての長唄でございますが、私....
宝永噴火」より 著者:岡本かの子
、娘はこの若い修道僧を恋するようになった。この娘は恋の懊悩の為、この年の翌々年、宝永二年に死んでしまうことになっているが、人間は単に恋のような精神的の苦悩の為に....
特殊部落の成立沿革を略叙してその解放に及ぶ」より 著者:喜田貞吉
りで、穢多頭として多くの皮田部落民を率いて、二条城の掃除をする役でありましたが、宝永五年に文六が死んであとが嗣がず、各部落は年寄支配になり、職務も牢屋の外番を命....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
から近江・摂津の一部にまで統率権を及ぼしていたのである。しかるに上方では、勝助が宝永五年に死んだ後、その跡が取り潰しになって、各村にはエタ年寄が、各自その手下の....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
この書類に基づいて弾左衛門はその支配権を主張し、しばしば種々の問題を惹起した。宝永年間房州で歌舞伎芝居興行の節、弾左衛門手下のものが、舞台に乱入して役者を脅迫....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
大要次の通りである。 京都には上の御霊の鳥居の脇に唱門師村という一廓があって、宝永二年の序のある『山城名勝志』には、「今に至る迄彼地唱門師多く住す」とある。 ....