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「家数〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

家数の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
空襲葬送曲」より 著者:海野十三
灘の、一番北の端に、磯節で有名な三磯の一つ、磯崎町というところがあった。ここは、家数が四五十しかない、至って小さい町だった。町というのが多くは漁師の家で、その外....
神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
この神々しい「聖壇」を囲み、四方八方に延びているのが、信者達の住む市街であった。家数にして五百軒、甍を並べ軒を連ね、規矩整然と立ち並んだ態は、普通の町と異りがな....
菎蒻本」より 著者:泉鏡花
思ってる。 電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕だろう。」 口を曲げて、看板の灯で....
湯女の魂」より 著者:泉鏡花
から湯女の魂を託って、遥々東京まで持って参ったというお話。 越中に泊と云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌な町があります。伏木から汽船に乗りますと、富山の岩瀬....
寄席と芝居と」より 著者:岡本綺堂
この興行は大入り大当たりであった。原作者の円朝も頗る得意で、その一門の三遊派落語家数十名を率いて見物した。 ついでに記すが、この時の中幕は「箱根山曾我初夢」で....
壁の眼の怪」より 著者:江見水蔭
は集まって、乾した股引脚半の小紋或いは染色を見て、皆々珍しがっているのであった。家数昔は五十戸有ったが、今は二十戸という、その割には人の数の多いのに驚かれた。男....
大阪の憂鬱」より 著者:織田作之助
村鴈治郎が芝居への通い路にしていたとかで鴈治郎横丁と呼ばれている路地も、以前より家数が多くなったくらいバラックが建って、食傷路地らしく軒並みに飲食店だ。などとい....
河伯令嬢」より 著者:泉鏡花
の、梨の木坂を越えるあたりから降出したらしいのですが、さすが引返すでもなかった。家数四五軒、佗しい山間の村で、弁当を使った時、雨を凌いで、簀の子の縁に立掛けた板....
二葉亭四迷の一生」より 著者:内田魯庵
両親の目から見れば苦々しくて黙っていられなかった。 尤も『浮雲』に由て一躍|大家数に入った二葉亭の成功については老親初め周囲のものは皆驚嘆もし満足もした。丁度....
間人考」より 著者:喜田貞吉
享四年隠岐島各村の統計を編綴したる隠州記といふ書には、島後の島内村数四十九箇村、家数二千二百六十二軒の内、七百二十九軒の間脇階級有之、之を村別にすれば矢尾村の七....
南半球五万哩」より 著者:井上円了
放ちて出航し、ようやく帰程に上る。十時ボスコップ湾に入る。船客またみな上陸す。人家数戸あるのみ。その前後の丘陵は松林数町連なり、野草繁生し、夏花の愛すべきものあ....
けしの圃」より 著者:小川未明
がありました。それはなんでも北の方で、青い海の見える町でありました。町といっても家数の少ない小さなさびしい町で、魚問屋や、呉服屋や、荒物屋や、いろんな商店があり....
特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
。「京都御役所向大概覚書」によるに、今を距る二百四年前の正徳五年調査の「洛外穢多家数人数の事」という条に、 百八十八軒 七百八十九人 六条....
エタ源流考」より 著者:喜田貞吉
津国へ下った時の調査報告に、島下郡では西富田・岸部・吹田の穢多村と共に、「宿河原家数廿軒計、二人歩、組頭喜左衛門・甚兵衛」ということが見えている。 また「賤者....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
謂ふもの、北側東の端同町の会所是なり。本尊阿弥陀仏今猶存す。 又当町号所舞楽人の家数多あり。是元興寺の余計なり。 とある。公納堂が元興寺の正倉院であったとのこ....