寛元[語句情報] » 寛元

「寛元〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

寛元の前後の文節・文章を表示しています。該当する7件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
長吏名称考」より 著者:喜田貞吉
云。 などある。 賤者に対してこの称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である。 本寺奈良坂非人陳申、....
サンカ者名義考」より 著者:喜田貞吉
然なる転音と言わねばならぬ。 これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂非人文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)....
法然行伝」より 著者:中里介山
のになっているが、実秀は法然からこの消息を恭敬《くぎょう》頂戴して一向に念仏し、寛元四年往生の時矢張り奇瑞があったという。実秀の妻室も深くこの消息の教えを信受し....
牛捨場馬捨場」より 著者:喜田貞吉
」に見ゆる浮浪人の長に当るもので、その勢力の往々盛んなるものの少からなんだ事は、寛元年間における清水坂及び奈良坂の坂の者たる非人法師等の闘争に関して、長吏法師の....
賤民概説」より 著者:喜田貞吉
られる。彼らは諸国からの落伍者の集まりで、それぞれ郷国の名を以て呼ぶ例であった。寛元年間の清水坂と奈良坂との非人闘争に関する訴訟文書を見ると、中には法仏法師とか....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
ある。しかし般若寺坂を奈良坂と言い出したのもおそらく鎌倉時代以来のことで、仁治・寛元の頃に東大寺領奈良坂の非人と、京都清水坂の非人とが闘争に及んだことがあった。....
濫僧考補遺」より 著者:喜田貞吉
。 とある。奈良の北山非人の事は、「民族と歴史」四巻一号(大正九年七月発行)に、寛元二年及び元亨四年の文書を引いて、いささか説明しておいたところであったが、その....