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寛文
「寛文〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
寛文の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「或敵打の話」より 著者:芥川竜之介
の推薦で、新知《しんち》百五十|石《こく》に召し出されたのであった。
ところが
寛文《かんぶん》七年の春、家中《かちゅう》の武芸の仕合《しあい》があった時、彼は....
「恩を返す話」より 著者:菊池寛
思った。しかしそれは自分が、恩を返す能力のないことを自白するのと同じだと思った。
寛文《かんぶん》三年の春が来た。甚兵衛は、明けて四十六の年を迎えた。天草の騒動か....
「赤格子九郎右衛門」より 著者:国枝史郎
カンポット港まで潜行した。こうして船へ乗り込んで一先ず日本へ引き上げたのである。
寛文六年の初夏であったが、その赤格子九郎右衛門は、博多から江戸へ出かけて行った。....
「番町皿屋敷」より 著者:岡本綺堂
い打撃を彼にあたえたのは、奴の権六を失ったことであった。権六も喧嘩で死んだ。彼は
寛文三年の九月、日本堤で唐犬権兵衛等の待伏せに逢った時に、しんがりになって手痛く....
「死剣と生縄」より 著者:江見水蔭
る前に、未だ新利根の渡しも御座います」 「おう、新利根の渡しは、もう直きだなあ」
寛文年間に、蚕飼川から平須沼へ掛けて、新たに五十間幅に掘割られた新利根川。それは....
「怪異黒姫おろし」より 著者:江見水蔭
って、守刀で刺し殺されるのであった。その死屍は古井戸の中に捨てられたのであった。
寛文十二年二月二十一日晩方、高田殿は逝去した。天徳寺に之を葬った。天和元年には、....
「帯の巾が広すぎる」より 著者:上村松園
のが、だんだん若いお女中に用いられたものでございます。昔はこの振袖も至って短かく
寛文時代で女の振袖の長さが一尺五寸、左右合わせて六尺となっております。ところが漸....
「国栖の名義」より 著者:喜田貞吉
会云、『国主神社は古くより久授呂宮と云ひ伝ふ。久授は国栖にて、呂は助語なるべし。
寛文中の古記に、上古吉野の国栖人来りて此地に祀る所といへり。○按に、国主・栗栖・....
「国号の由来」より 著者:喜田貞吉
類である。或いは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。
寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道|胆振地方と見らるべき....
「間人考」より 著者:喜田貞吉
つて民族と歴史一巻一号において駆使部と土師部との関係を論じ、その中に明暦四年及び
寛文十年の阿波の棟附帳(戸籍)から「間人」なる一階級の民衆の存在を紹介しておいた....
「本州における蝦夷の末路」より 著者:喜田貞吉
て、確かな証拠はありませんが、津軽藩の記録によりますと、今から約二百六十年前の、
寛文頃に、まだ領分内に蝦夷として認められたものの居た村が、外が浜に十六ヶ村、その....
「春雪の出羽路の三日」より 著者:喜田貞吉
なするに至らず、阿倍比羅夫遠征のころの渟代郡のあった場所なのだ。しかるに徳川時代
寛文四年郡名整理のさいに、大いにその実際を誤って、仙北をもって一郡の名と心得たが....
「特殊部落の人口増殖」より 著者:喜田貞吉
迄の間の河原を六条河原と云ったのである。)これ六条村の名ある所以である。その以前
寛文頃迄は、今の松原通り東洞院の東、稲荷町の地にあったとも言われている。その地は....
「旃陀羅考」より 著者:喜田貞吉
のである。「祖師伝」の中でも最も古いと言われる「元祖化導記」は文明十年日朝述で、
寛文六年の版だとあるが、それには或記というものによって、「先祖は遠州の人|貫名五....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
加悦町算所。これは特殊部落とみなされ、明治四十年の調べには三十五軒を数えている。
寛文の宮津領の図に、算所村高四百三石一斗五升とあるが、「皮多」とも「穢多」とも書....