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「寛正〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

寛正の前後の文節・文章を表示しています。該当する8件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
応仁の乱」より 著者:菊池寛
たが、費用が足りなくて銀が箔れなかったなど、有名な話である。大体彼は建築道楽で、寛正の大飢饉に際し、死屍京の賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。 ....
神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
り、信玄は酒宴を催した。 その時信玄は楯無しについて一場の物語を物語った。 「寛正六年のことである。三代の祖先信昌公には、板垣三郎、下山五郎、この二人を先陣と....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
じめて承りましたよ」 「左様でございますな、古書を調べてみますというと、三喜は、寛正の六年に武州川越に生れたとあります。医師となって長享元年に明国《みんこく》に....
旧聞日本橋」より 著者:長谷川時雨
《ひさし》をかした稲荷の方へ、杉の森の土地をとられてしまった訳だった。 それは寛正の頃、東国|大《おおい》に旱魃《かんばつ》、太田道灌《おおたどうかん》江戸城....
東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
の三条西家に納まらなかったこと、およそ三十年に及んだと、実隆の日記に見えるから、寛正年間からして不知行であったので、応仁の一乱のために無音になったのではない。約....
雪の宿り」より 著者:神西清
ほかに瑞祥と申しますか妖兆と申しますか、色々と厭らしい不思議がございました。まず寛正の六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜|亥の刻ごろ、その大いさ七八|尺....
俗法師考」より 著者:喜田貞吉
近かったので、「御近所の声聞師」ともいっていた。 『山城名勝志』引「季瓊日録」(寛正五年)によれば、六月十四日の祇園の祭礼に、北畠から跳戈を出し、歌舞して御所へ....
融和問題に関する歴史的考察」より 著者:喜田貞吉
地方においても、それと似た事実は、実際上たびたびあったのであります。 室町時代寛正二年には、前年に諸国が大旱で、米が取れなかったがために、各地に多数の餓死者が....