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寺家
「寺家〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
寺家の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「神州纐纈城」より 著者:国枝史郎
…四国へはいっては長曽我部へ仕え、九州へ渡っては大友家へ仕え、肥前へ行っては竜造
寺家へ仕え、薩摩へ入っては島津家に仕えた。……そのうち故郷が懐しくなり、窃り二人....
「旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
た。無理もない。話のその竜造寺長門守こそは、実に、人も知る戦国の頃のあの名将竜造
寺家の流れを汲んだ、当時問題の人だったからです。城持ちの諸侯ではなかったが、名将....
「菊模様皿山奇談」より 著者:三遊亭円朝
か些と早く帰りたいがの」 大「いえ、今晩は小梅のお中屋敷へ御一泊遊ばしては如何、
寺家田の座敷が手広でござる、彼へ御一泊遊ばしますように、是から虎の門までお帰りに....
「死までを語る」より 著者:直木三十五
名な「大寺事件」というものがあった。江戸堀随一の旧家、元の十人両替の中の一軒、大
寺家に起った謀殺事件である。これと、一寸、女の家とが関係があったので、婚期を失し....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
刀だというものもあれば、弁慶の薙刀《なぎなた》だと伝える者もあります。軸物は世尊
寺家の塩釜日記だとか、古永徳の扇面であったとか、ついには王羲之の孝経であったとい....
「鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
。そのおもな者には、徳大寺殿の家来の滋賀右馬大允というのがある。松山藩はこの徳大
寺家を経て朝廷への用を多く弁じていたものであるから、藩からこの滋賀へは贈物なども....
「東山時代における一縉紳の生活」より 著者:原勝郎
る名誉進級という格だ。また実隆の親類を見渡すにあまりに高貴な家は少ない。母は甘露
寺家の出で房長の娘親長の姉である。妻は勧修寺教秀の女で、実隆の子公条の妻もまた甘....
「夢は呼び交す」より 著者:蒲原有明
ている。屋形のうしろに断崖がある。八重垣落しである。 八重垣というのはこの竜造
寺家幾代目かの寵姫である。戦乱の収まって以来、戦勝者が本藩を建て、竜造
寺家はその....
「郷介法師」より 著者:国枝史郎
実父なるものはついに何者だか解らないのである。 郷介の養父は九州に名高い、龍造
寺家の長臣であったが、養子郷介を貰い受けた時、ある有名な人相見が、親殺しの相があ....
「娘煙術師」より 著者:国枝史郎
大寺大納言から、例の屋敷の老人のもとへ送られて来たところの文書なのだ。使者は徳大
寺家の公卿侍の青地清左衛門という武士であったそうな。その清左衛門を矢柄源兵衛めが....
「巷説享保図絵」より 著者:林不忘
で通っていた。
そのうちに、龍造寺主計は、痴唖《ちあ》ということになって、龍造
寺家から、正式に、主計の廃人届が出された。まもなく、彼は庄内を出奔して、それ以来....
「東洋文化史における仏教の地位」より 著者:高楠順次郎
ら変化してきたのだと思います。長老を「テーラ」といいますからこれに家の字を付けて
寺家、今の
寺家というのと同じことであったと信ずる。それと同じことであったと信ずる....
「法然行伝」より 著者:中里介山
そこで定まって疑念が忽ちに溶けて罷《まか》り帰った。 法然が清水寺で説教の時、
寺家の大勧進沙弥印蔵《だいかんじんしゃみいんぞう》という者が、念仏の信仰に入り、....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
年下であった。 名は佐藤義清、憲清とも則清とも書き、法名は円位ともいった。徳大
寺家の家人で、俵藤太秀郷の子孫だというが、家柄はあまり高くなく、右兵衛尉に任じた....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
ず寺院に住するということが一つの条件であった。元正天皇の行基厳戒の詔にも、僧尼は
寺家に寂居して、教えを受け道を伝うとある。前に述べた如く彼らは、歴門教化すること....