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「対陣〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

対陣の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
かのように」より 著者:森鴎外
ある。 秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候《せっこう》を出して、その斥候が敵の影を認める度....
佐橋甚五郎」より 著者:森鴎外
こふ》まで出張って、八千足らずの勢《せい》をもって北条《ほうじょう》の五万の兵と対陣《たいじん》した。この時佐橋甚五郎は若武者仲間《わかむしゃなかま》の水野藤十....
姉川合戦」より 著者:菊池寛
朝倉勢は三田村に展開した。 かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。 今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、 織田信長(三十七歳) ....
田原坂合戦」より 著者:菊池寛
は、田原敗ると聞いて、即日、鳥栖地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もあるが、大勢は....
長篠合戦」より 著者:菊池寛
達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は川を越えて対陣し、持久の策を採らば、我軍の兵糧に心配ないのに対して、敵軍は事を欠いて自ら退....
碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
衛正勝はその儀然るべからずと諫めたから、四郎兵衛は左に、五郎兵衛は右に備を立てて対陣し、大筒小筒を打合ったが、四郎兵衛の手の内|三吉太郎左衛門元高の旗持が弾に中....
小田原陣」より 著者:菊池寛
するかにある。 此の時小早川隆景進言して言うのに、父の毛利元就が往年尼子義久と対陣した際、小歌、踊り、能、噺をやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つことが出来た....
石狩川」より 著者:本庄陸男
、その故にまた宗藩から投げだされたと云い得る。領内の士卒五百名を率いて、白河口の対陣になすこともなく過した三旬、中山口に兵をかえして、長州の応援を得た秋田藩を破....
日本脱出記」より 著者:大杉栄
その根本的理論の差異の上に立って、中央集権論と自由連合論との二派の労働者の背後に対陣することとなった。 日本の労働運動は、この大会を機として、その思想の上にも....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
ことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い。次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛|鷙悍《しかん》の威勢を望み見て....
詩の原理」より 著者:萩原朔太郎
の二つの者は、芸術の曠野《こうや》を分界する二の範疇《はんちゅう》で、両者は互に対陣し、各々の旗号を立て、各々の武器をもって向き合ってる。 人間の好戦的好奇心....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
ったそれからは、中に何も置かず、川と川原だけで、そうして、両岸の竹槍と竹槍とが、対陣の形によって、おのおの両方から取詰めて行っていることを米友が明らかに認めまし....
丹下左膳」より 著者:林不忘
西二十万の大軍、美濃国《みののくに》不破郡《ふわぐん》関《せき》ヶ|原《はら》に対陣した。ここまでは、どの歴史の本にも、書いてある。 家康は、桃配《ももくばり....
決戦川中島 上杉謙信の巻」より 著者:坂口安吾
るものわずかに三。信玄の弟|典厩信繁も開戦とともに討死してしまった。 川中島に対陣した彼我の兵力はともに八千であったが、信玄には山伝いに妻女山の背面へ迂回して....
学者安心論」より 著者:福沢諭吉
に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着《らくちゃく》を待つのみ。....