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寿永
「寿永〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
寿永の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「俊寛」より 著者:菊池寛
求めて、硫黄商人の船に乗り、鬼界ヶ島へ来たのは、文治二年の如月半ばのことだった。
寿永四年に、平家の一門はことごとく西海の藻屑となり、今は源家の世となっているので....
「綺堂むかし語り」より 著者:岡本綺堂
船、うろうろと漕ぎまわる。石炭をつむ女の手拭が白い。 対岸の下関はもう暮れた。
寿永のみささぎはどの辺であろう。 なにを呼ぶか、人の声が水に響いて遠近にきこえ....
「みみずのたはこと」より 著者:徳冨健次郎
側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初|一瞥して寛永と見たが、見直すと
寿永に見えた。
寿永では古い、平家没落の頃だ。
寿永だ、
寿永だ、
寿永にして措け、と寿....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
事すこぶる煩わしいからここには略して竜譚に関する分だけを述べよう。『玉葉』四十に
寿永三年正月元日伊勢怪異の由を源義仲の注進せる内に、元日の夜大風雨雷鳴|真虫《ま....
「十二支考」より 著者:南方熊楠
、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、
寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る。伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
、須磨、明石、備前、備中を越えて長門の下の関――赤間ヶ関、悲しい名でございます。
寿永の昔にあの赤間ヶ関の浪の末に万乗の君がおかくれになりました、その赤間ヶ関の名....
「平家蟹」より 著者:岡本綺堂
那須の家来 弥藤二 ほかに那須の家来。浜のわらべなど (一)
寿永四年五月、長門国壇の浦のゆうぐれ。あたりは一面の砂地にて、所々に磯馴松の大樹....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
朝討伐の準備をする、遠く秀衡にまで院宣を申し下して頼朝を夾撃せんとする。『吉記』
寿永二年十二月十五日の条にそのことが見えているのである。 かくのごときの有様で....
「法然行伝」より 著者:中里介山
然は重衡卿から贈られた鏡を結縁《けちえん》のために贈り遣わしたということである。
寿永元暦の頃の源平の乱によって命を落したものの供養をするといって俊乗房が興福寺、....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
彩をもつようになったために、隠逸を捨てたともいえるのである。 さて『千載集』は
寿永二年二月に後白河院の院宣が下って、文治三年九月二十日に撰進されたものであった....
「三国志」より 著者:吉川英治
、玉璽を持って行って、それに彫ってある篆字の印文を読んで聞かせた。 受命于天 既
寿永昌 「……とございましょうが」 「むむ」 「これはむかし荊山のもとで、鳳凰が....
「三国志」より 著者:吉川英治
として、印面には、八字の篆文が刻してある。すなわちこう読まれた。 受命于天 既
寿永昌 孔明はひと目見るやたいへん驚いて、 「これこそ、ほんとうの伝国の玉璽で....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
の修羅の業と輪廻を共にするほかない。 都は広いと聞く。 かつての承久ノ乱や、
寿永、治承の大戦のさいでも、都の北山、嵯峨野のおくには、平家のきずなや権門を遁れ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
大橋、また宇治川が、攻守決戦の境になる。 壬申ノ乱の大海人の皇子軍。木曾義仲の
寿永の都入り。承久ノ乱の北条勢と朝廷|方。 そしてまいど、守備のほうが、そのた....
「随筆 私本太平記」より 著者:吉川英治
を小説中に用いた場合は、明記して、お礼に代えるつもりである。 平家物語の治承・
寿永の世には、西行法師という風外の歌法師がいたが、太平記の大乱時代にも“徒然草”....