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山陽道
「山陽道〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
山陽道の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「日本山岳景の特色」より 著者:小島烏水
る、日本が火山国と言っても、火山が排列しているところはやはり決まっている、畿内や
山陽道や四国(或部分を除けば)などは、火山岩の噴出はあっても、火山として目すべき....
「海に生くる人々」より 著者:葉山嘉樹
寒さのために凍死し、飢餓のために餓死しなければならないのであった。 彼の村は、
山陽道と山陰道を分ける中国の脊梁《せきりょう》山脈の北側に、熊笹《くまざさ》を背....
「菊模様皿山奇談」より 著者:三遊亭円朝
まいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には
山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、何処となく湿気ますので、季候が不順のところか....
「夜明け前」より 著者:島崎藤村
。普請役、および小人目付は長防征討のために人馬の伝令休泊等の任務を命ぜられ、西の
山陽道方面ではそのために助郷の課役を免ぜられた。 この将軍の進発には諸藩でも異....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
遠、或いは紀州から摂津、更に備前、備中、備後、安芸《あき》等、畿内《きない》から
山陽道にわたって漂うのを常とし、これらの地を蚊が襲うようになると、彼等は東海道と....
「大菩薩峠」より 著者:中里介山
られ、語り伝えられていないというはずはなく、まして、海外交通の最も便宜の多かった
山陽道方面の要地を占めていた毛利元就の知識となることは不自然ではない。元就が最期....
「獄中への手紙」より 著者:宮本百合子
がコンピラ詣りをなさったお伴をしたとき、内海の山々の遠景を大変興ふかく見ました、
山陽道の面白味はああいうところね。 (3―3) こういう美しさを愛すのは、日本....
「大鵬のゆくえ」より 著者:国枝史郎
ならぬ」 勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、
山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通....
「安吾の新日本地理」より 著者:坂口安吾
雪国の小作農家の住宅はひどいものだ。特に小作の多かった新潟県がひどい。東海道、
山陽道等の一般農家建築とは、比すべくもない。その小さいことも論外だが、屋根にはタ....
「幕末維新懐古談」より 著者:高村光雲
四月、足利尊氏が赤松の兵を合せて大いに六波羅を破ったので、後醍醐天皇は隠岐国から
山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ還御ならせられました。そのみぎり、楠公は金剛山の....
「間人考」より 著者:喜田貞吉
する。 山陰地方にはかつてハチまたはハチヤと呼ばれた一種の階級の民衆があった。
山陽道筋でチャセンと云い、北陸方面でトウナイと云い、東海道筋で説経者またはササラ....
「手仕事の日本」より 著者:柳宗悦
みます。 近畿 京都大阪を中軸とし、東は江州から南は紀州まで。 中国 播磨以西の
山陽道と、丹波以西の山陰道。 四国 九州 沖縄 以上の九つになりますが、もとよ....
「私本太平記」より 著者:吉川英治
る。 あすの夜は、日女道(姫路市)の府か、今宿か。 そして美作境へ向っても、
山陽道へ出ても、それから先は、一路出雲まで中国山脈の脊梁と聞く、その山波が、誰の....
「賤民概説」より 著者:喜田貞吉
亡、穏亡、※坊などとも書く)の一類、すなわち上方地方の宿(夙)、山陰道筋の鉢屋、
山陽道筋の茶筅、北陸道筋のトウナイなどと呼ばれた人々の如きは、もと葬儀にあずかり....
「俗法師考」より 著者:喜田貞吉
子であることには相違はない。それは千秋万歳法師の語があるばかりでなく、徳川時代の
山陽道筋の茶筅の徒が、烏帽子素袍で万歳に出たり、両刀を帯して元日の祝儀に回礼した....