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「岩倉〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

岩倉の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
星座」より 著者:有島武郎
石《といし》のように彎曲《わんきょく》していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視《いわくらともみ》が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「....
三狂人」より 著者:大阪圭吉
と云うのだった。 赤沢院長の父祖と云うのは、流石に日本一の家庭看護の本場、京都岩倉村の出身であるだけに、いち早くこの点に目をつけた。そして互に矛盾し合う二つの....
動かぬ鯨群」より 著者:大阪圭吉
た。 北海丸と云うのは、二百|噸足らずのノルウェー式捕鯨船で、小さな合名組織の岩倉捕鯨会社に属していた。船舶局の原簿によると、北海丸の沈没は十月七日とあった。....
桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
もって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。 更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せられた。 以上は皆同族の叛....
田原坂合戦」より 著者:菊池寛
なかったと云う。そして自ら西下して、西郷に説こうとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極、勝安房をして行って説諭させんとした。これは江戸城明け渡しの因....
鳥羽伏見の戦」より 著者:菊池寛
ぞ知らん、その日は薩長二藩に対し、討幕の密勅が、下された日である。 即ち薩長や岩倉|具視の肚では武力を以て圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たの....
近時政論考」より 著者:陸羯南
政事家間に衝突を起こしたりという。明治四年廃藩置県の業成りて後、内治派の巨擘たる岩倉公は欧米回覧の企てをなし、木戸、大久保、伊藤の諸官を率いて本国を去れり、ここ....
夜明け前」より 著者:島崎藤村
この御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱いた岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直なぞの有力な人たちがあって、この人たちが....
甲州鎮撫隊」より 著者:国枝史郎
の春陽は射して来ていて、柱の影を、畳へ長く引いていた。 「板垣退助が参謀となり、岩倉具定を総督とし、土州、因州、薩州の兵三千、大砲二十門を引いて、東山道軍と称し....
大捕物仙人壺」より 著者:国枝史郎
を議定するため、小御所で会議を行なわせられた。中山忠能、正親町實愛、徳大寺實則、岩倉具視、徳川慶勝、松平慶永、島津義久、山内容堂、西郷隆盛、大久保利通、後藤象二....
にらみ鯛 」より 著者:佐藤垢石
。ご用談が、予定以上に長くなって、灯がつく頃になっても禁裡を退出しなかった。侍従岩倉具視は、 (この機を逸しては――) と、考えた。そして、久我建道と相談して....
赤げっと 支那あちこち」より 著者:国枝史郎
というようなことは一向不思議で無く行われたという次第さ。こういう洋行赤毛布事件は岩倉公一行欧洲旅行以来途絶えていたものと解していたが、案外そうでは無いのだね。 ....
画筆に生きる五十年」より 著者:上村松園
品したものでございます。狂女を描くのですから、本当の狂人をよく観たいものと思い、岩倉精神病院へ、二、三度見学にまいったものでした。院長に案内されて病棟を歩きます....
花筐と岩倉」より 著者:上村松園
お夏の狂態と照日前の狂態にへだたりが見えるのでもあろう。 狂人を見るのでしたら岩倉村へゆけばよいでしょう。と、ある人がわたくしに教えてくれた。 京都の北の山....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
歌は飛鳥井家につき、後東常縁についた。連歌の方は正徹にまなんだ心敬の門人である。岩倉に庵を作って自然斎といい、後東山に庵を移して種玉庵といった。応仁乱がはじまる....