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左近
「左近〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す
左近の前後の文節・文章を表示しています。該当する15件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
「或敵打の話」より 著者:芥川竜之介
ために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友《ねんゆう》の約があった、津崎
左近《つざきさこん》と云う侍も、同じく助太刀《すけだち》の儀を願い出した。綱利は....
「茶の本」より 著者:岡倉覚三
馥柯羅摩訶秩多――維摩経ではこの典拠不明。維摩居士のことか。 二八 利休が「富田
左近へ露地のしつらい教うるとて」示したものは「樫の葉のもみじぬからにちりつもる奥....
「桶狭間合戦」より 著者:菊池寛
佐久間大学盛重は徒らに士を殺すを惜んで、五人の旗頭、服部|玄蕃允、渡辺大蔵、太田
左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後軍に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かな....
「長篠合戦」より 著者:菊池寛
夫々陣を布いた。更に川上村茶臼山には、佐久間|右衛門尉信盛、池田庄三郎信輝、滝川
左近将監一益、丹羽長秀なんぞの勇将が控え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎|氏郷....
「賤ヶ岳合戦」より 著者:菊池寛
中の周章は一方でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川
左近|将監一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫|氏政と合戦中であったが、忽ち媾和し....
「碧蹄館の戦」より 著者:菊池寛
たので、誰を先手の将とするか詮議|区々である。隆景進み出て云う様、この大役は立花
左近将監宗茂こそ適役である。嘗つて某の父元就四万騎をもって大友修理大夫|義鎮の三....
「山崎合戦」より 著者:菊池寛
無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に、心うごいたが、家老杉倉右近、島
左近の二人が主人を諫めて出陣せしめず、ただ人数だけを山崎の対岸なる八幡の洞ヶ峠に....
「応仁の乱」より 著者:菊池寛
た公卿も有ったと云う。 こんな世相であるから、皇室の式微も甚しかった。昼は禁廷
左近の橘の下に茶を売る者あり、夜は三条の橋より内侍所の燈火を望み得たとは、有名な....
「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」より 著者:井原西鶴
。こんな風儀はどこの国に行っても変った事はない。 加賀の国の城下本町筋に絹問屋
左近右衛門と云うしにせあきんどがあった。其の身はかたく暮して身代にも不足なく子供....
「怪しの館」より 著者:国枝史郎
上へ出なければなりません」 「で、お前は行かなければならない」 「弁吉、右門次、
左近を連れて……」 「そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ」....
「弓道中祖伝」より 著者:国枝史郎
て、「あばら組」という組であり、頭目は自分で南朝の遺臣、しかも楠氏の一族の、恩地
左近の後統である、恩地雉四郎であると称していたが、その点ばかりは疑わしかったが、....
「奥州における御館藤原氏」より 著者:喜田貞吉
御家人を進退せしめ、以下それぞれ勇士勲功の恩賞あり、翌年三月十五日にはさらに伊沢
左近将監家景を奥州留守職となし、これより両人奥州総奉行と号して国務を執ることとな....
「手長と足長」より 著者:喜田貞吉
とある。この外日記類に散見するところが甚だ多い。 康平記、康平五年正月二十日条、
左近少将政長為。 小右記長徳二年八月条、 手長乎。 台記仁平四年正月十四日条、....
「中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
務にも精励だった。けれども出世は遅々としていた。官は十四でなった侍従が、二十八で
左近権少将になったきり、四十になってもそのままであった。位は三十四で従四位上にな....
「放免考」より 著者:喜田貞吉
牛の童 別の院の御牛の下部童 院の御飾馬の御廏舎人時廉 同口取右近将曹秦兼国 同
左近府生下毛野敦助 引馬の御廏舎人国次 同口取殿下右府生下毛野敦景 同 右番長....