左近衛[語句情報] » 左近衛

「左近衛〜」の文章内での使われ方:小説や文学作品の中から探す

左近衛の前後の文節・文章を表示しています。該当する14件の作品を表示しています。
検索対象[仮名遣い:新字新仮名]
阿部一族」より 著者:森鴎外
従《じゅ》四|位下《いのげ》左近衛少将《さこんえのしょうしょう》兼|越中守《えっちゅうのかみ》細川忠利《ほそ....
旗本退屈男」より 著者:佐々木味津三
人や三人、問題とするところでない。目ざす対手は、大隅、薩摩、日向三カ国の太守なる左近衛少将島津修理太夫です。 「びくびく致すな、その方共なぞ、もう眼中にないわ。....
蒲生氏郷」より 著者:幸田露伴
松坂と呼んだ。前の居城松ヶ島の松の字を目出度しとして用いたのである。当時正四位下左近衛少将に任官し、十八万石を領するに至った。 小田原陣の時、無論氏郷は兵を率....
余録(一九二四年より)」より 著者:宮本百合子
。 二十三で権中納言、二十七で従二位中宮太夫となった道長は、三十歳の長徳元年、左近衛の大将を兼ねるようになったが、その前後に、大臣公卿が夥しく没した。その年の....
大菩薩峠」より 著者:中里介山
《やぶさめ》に限ったことはござらぬ、朝廷にては五月五日の騎射、駒牽《こまひき》、左近衛《さこんえ》、右近衛《うこんえ》の荒手結、真手結、帯刀騎射《たてわききしゃ....
鳴雪自叙伝」より 著者:内藤鳴雪
った。私の父は菱田という家から養子に来たものでこの菱田の主人即ち私の祖父にあたる左近衛門というは、その頃奥の頭役《かしらやく》といって、他では奥家老といった役を....
源氏物語」より 著者:紫式部
たいともっともなことを願っていた。 源氏は花散里夫人の所へも寄った。 「中将が左近衛府の勝負のあとで役所の者を皆つれて来ると言ってましたからその用意をしておく....
源氏物語」より 著者:紫式部
に行幸があって、初めに馬場殿へ入御になった。左馬寮、右馬寮の馬が前庭に並べられ、左近衛、右近衛の武官がそれに添って列立した形は五月の節会の作法によく似ていた。午....
源氏物語」より 著者:紫式部
か、守の顔だちが上品であるとか、よいふうにばかりしいて言って出入りしている中に、左近衛少将で年は二十二、三くらい、性質は落ち着いていて、学問はできると人から認め....
中世の文学伝統」より 著者:風巻景次郎
た。 建保六年、二十七歳の年、正月には閑院内裏造営の恩賞として権大納言、三月|左近衛大将、十月内大臣、十二月右大臣に昇り、この年母政子も従二位した。 翌承久....
私本太平記」より 著者:吉川英治
こにあるのか了解にくるしんだ。 しかしこの赴任は、すでに前の月の勅令で、 参議左近衛ノ中将顕家ヲ 陸奥守ニ任ジ 親王|義良ヲ副ヘテ 陸羽ノ鎮守ニ 差シ下シ賜フ....
私本太平記」より 著者:吉川英治
てもよかろう。年は三十のなかば、元々の美男でもある。 そのうえこのほど官位も、左近衛ノ中将 に昇され、弟の脇屋義助は、右衛門ノ佐となった。 彼の得意時代が....
私本太平記」より 著者:吉川英治
軍六万をひきい、山陽山陰十六ヵ国からなにを徴用してもよい管領権までを賜わってきた左近衛中将義貞なのだ。それが都門を出た三月いらい――きょう五月二十四日――のこの....
大岡越前」より 著者:吉川英治
人もなげな天性を愛顧されて、幼名源六を新之助と改め、加冠して、従四位下に叙され、左近衛少将に任ぜられたという――厄介なお坊ちゃんであると知れたのである。 ――....